てゐた為立物師も、己にそのパンを食はせよう、その衣類を着せようと云ふより外には、何等の欲望をも目的をも有してゐなかつた。己のために穀物が収穫せられ、己のために葡萄が醸造場の桶に投ぜられた。その外人一人を生きてゐさせるために働いてゐる工匠の数を誰が数へ挙げることが出来よう。人間と云ふものは幾多の労作の形づくつてゐる圏線《けんせん》の中心点に立つてゐる。併しそれは皆人生の必要品ばかりを言つたのである。若し更に進んで贅沢物に移つて見たら、どうだらう。理髪師と踊の師匠は、丁度外の工匠が己のために必要品を供給してくれるやうに、己に粧飾や消遣《せうけん》を寄与してゐるではないか。謂はば己は一切の人間の共同して造り上げてゐた製作物であつたのだ。又不幸にして己が或る災難に出合つたとすると、すぐに医者や薬剤師が現れて来て、創や病気の経過を整へてくれ、悪い転帰《てんき》を取らせぬやうに防ぎ止めてくれた。全体人体の構造を窮め知つて、自然の次第に破壊して行く力を遮り留めるやうにするのは、決して容易な業では無いのだ。
約《つゞ》めて言へば、人間が孤立してゐて、只自己のためにばかり警戒し憂慮してゐたら、必然陥いる筈になつてゐる危険と疲労とを、或る程度まで周囲のあらゆる人間が抑留してくれて、己はその恩沢を蒙つて生きてゐたのだ。世間は己の需要を予測して、潤沢に己に属※[#「上部「厭」+下部「食」」、第4水準2−92−73、101−上−16]《しよくえん》させてくれた。世間は己の活動して行くに都合の好い丈の意欲を己に起させてくれた。然るに今や忽然《こつぜん》として或る未知の女が現れて来て、この一切の好意に反抗しようとする。そいつは啻《たゞ》に周囲の援助を妨礙《ばうがい》しようとするばかりでは無い。却つて反対の方向に働かうとする。そいつは公々然として己の敵だと名告《なの》る。そいつは個個の善意の団体を離れて、独立して働く。そいつの意志の要求する所のものは何か。答へて曰く。己の死である。なぜ己の死を欲するか。答へて曰く。己に侮辱せられた報酬である。併しその侮辱は己が故意に加へたのでは無い。第三者の盲目なる器械となつて、期せずして加へたに過ぎない。それに或る未知の女は己の死を欲する。想ふにそいつは必ず目的を達することだらう。事によつたら明日己を殺すかも知れない。己がその女の名も知らず顔も知らぬのだから、
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