謡曲と画題
上村松園

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)窮恒《みつね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)壬生|忠岑《ただみ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)波のうね/\生ひ茂る
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 下手の横好きと言いますか、私は趣味のうちでは謡曲を第一としています。
 ずっと以前から金剛巌先生について習っていますが今もって上達しません。べつだん上手になろうともしないせいか、十年一日のごとく同じ下手さをつづけている次第です。

 謡曲をやっていますと身も心も涼風に洗われたように清浄になってゆく自分を感じるのであります。

 謡曲にもちゃんとした道義観とでもいうものがあって、人間のあゆむべき正しい道とか、あるいは尚武剛気の気性を植えつけるとか、貞操の観念を強調するとか――とにかく謡曲のなかにうたわれている事柄は品位があって格調の高いものであり、それを肚の底から声を押し上げて高らかにうたうのですから、その謡い手の身も心も浄化されてゆくのは当然のことと言わねばなりません。

 それで謡曲に描かれている事象はすべてこれ絵の題材と言っていいくらいでしょう。
 よほどの高い内容をもったものでないと、謡曲にとりあげられないのですから、したがってその事象を絵に移しても、絵もまた自然と格の高い品位のあるものになるという訳であります。
 私は謡曲が好きな故か謡曲から取材して描いた絵は相当にあります。中でも「砧」や「草紙洗小町」などはその代表的なものでしょう。

 もっとも絵の材料になると言っても、文字につくられた謡曲の謂いではありません。それにつれて演出される格調の高いあの能楽の舞台面が多いのです。

 表情の移らない無表情の人の顔を能面のようなと言いますが、しかし、その無表情の能面といえども、一度名人の師がそれをつけて舞台へ出ますと、無表情どころか実に生き生きとした芸術的な表情をその一挙手一投足の間に示すものであります。

 私の先生の金剛巌さんやその他名人のつけられる面は、どれもこれも血が通っていて、能を拝見しているうちに、
「あれが能面なのであろうか」
 と疑うことがしばしばあります。そんな時にはその面はもはや面ではなくして一箇の生きた人の顔なのであります。

       草紙洗小町

「草紙洗小町」は昭和十二年の文展出品作で、これは金剛巌先生の能舞台姿から着想したものであります。
 金剛先生の小町は古今の絶品とも言われていますが、あの小町の能面がいつか紅潮して、拝見しているうちにそれが能面ではなく世にも絶世の美女小町そのものの顔になって生きているのでした。まるで夢に夢みる気持ちで眺めていた私は、
「あれを能面でない生きた美女の顔として扱ったら……」
 そう思ったときあの草紙洗小町の構図がすらすらと出来上ったのでした。

 むかしむかし内裏の御殿で御歌合せの御会があったとき大伴黒主の相手に小野小町が選ばれました。
 黒主は相手の小町は名にし負う歌達者の女性ゆえ明日の歌合せに負けてはならじと、前夜こっそりと小町の邸へ忍び入って、小町が明日の歌を独吟するのを盗みきいてしまいました。
 御題は「水辺の草」というのですが、小町の作った歌は、
[#ここから4字下げ]
蒔かなくに何を種とて浮草の
   波のうね/\生ひ茂るらむ
[#ここで字下げ終わり]
 というのですが、腹の黒主はそれをこっそり写しとって家に帰り、その歌を万葉集の草紙の中へ読人不知として書き加え、何食わぬ顔をして翌日清涼殿の御歌合せの御会へのぞみました。

 集まる人々には河内の躬恆《みつね》、紀の貫之、右衛門の府生《ふしょう》壬生|忠岑《ただみ》、小野小町、大伴黒主はじめこの道にかけては一騎当千の名家ばかり――その中で、いよいよ小町の歌が披露されると、帝をはじめ奉り一同はこれ以上の歌はまずあるまいといたく褒められたが、そのとき黒主は、
「これは古歌にて候」
 と異議の申し立てをし万葉の歌集にある歌でございますと、かねて用意の草紙を証拠にさし出しましたので、小町は進退に窮し、いろいろと歎きかなしみますが、ふとその草紙の字体が乱れているのと、墨の色が違っているのを発見したので、帝にそのことをお訴え申し上げたところ、帝には直ちにおゆるしがありましたので、小町はその場で草紙を洗ったところ、水辺の草の歌はかき消すがごとく流れ去って、小町は危いところで歌の寃罪からのがれることが出来たのであります。

 なかなかよく出来た能楽で小町が黒主から自分の歌を古歌と訴えられて遣る方のない狂う所作はこの狂言の白眉であって、それをお演《や》りになられる金剛先生のお姿は全く神技と言っていいくらいご立派なものでした。
 私は小町の
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