から蘇州へ行った。叭叭鳥や鵲の群れて飛ぶのんびりした景色を汽車の窓から眺めていた。童子が水牛にのってのどかに歩いているところや、羊が点々と遊んでいるところなどがみられた。百姓家があったり、家が潰れかかっているさまも却って雅趣がみえて嬉しかった。小川があると、支那の田舎娘が菜を洗っている。どの畠にもお墓の土饅頭が点在するのであった。
 だがまたしても思う……何という支那は大きな国であろう、土地の広大をのみいうのではない。
 汽車は大きくて、中がゆったりとして乗心持もよかった。
 蘇州の寒山寺は別していい寺というほどのこともないが、この寺の向こうには有名な楓橋があって、その橋の上から見下ろしておもいをはせれば、楓橋の夜泊、寒山寺の鐘啻《しょうてい》ひびきわたるところ「落月鳴烏霜満天……」の詩が生まれたのも宣《むべ》なるかなと思ったが、この辺の景色がいい。
 蘇州の獅子林をみたが、ここは太湖石が沢山あって、ずいぶんと広い庭園であった。
 太湖石は絵ではみていたが、真物は絵とはよほど変っていた。第一、太湖石は素晴しく大きなものである。それに真物は絵とちがって黄土色を呈しているのである。
 獅子林は真中が池である。裏手の方に門があり、太湖石があり、笹があり、芭蕉があり、苔もここのはさびて白緑色を呈していて、陽のかげに生じているのは群青色になっている。仇英の描く群青や緑青、また斑をもったきれいな苔を生じた太湖石は、実物をみて大いにこれを美化したものであることがわかった。実際の太湖石は南画の花鳥の傍らにあるかわいらしいものよりも、はなはだ大きなものが多かった。人がくぐれるほどの大きな穴があいている。ついだのもある。はなはだ大きなのは中途で継いであるらしい、そんな形跡がみえた。
 ここの富豪の婦人の部屋などもみせてもらった。朱の色の梯子、欄干があるなど奇麗なものだった。二階の床は木を用いているが、階下の部屋は石だたみで、冬は火の気がないと寒いものだろうと私にはおもえた。門を入るとまた次の門がある。幾つもの門をくぐってやっと主人の居間に達する。支那の富豪たちが外敵に対してどれほど深い用心をしているかが、これをみただけでもよくわかる気がする。ずっと遠いむかしからのながいながい不安の歴史が、おのずと彼らにこのような警戒心を備えさせてしまったのであろう。
 支那人は酒をのんでも決して酔い倒れるようなことがないという。酒を呑んで殺されてもしようがないからだ。呑気きわまる支那人の別の一面にそんなところがあるのを私は知った。

        支那靴

 蘇州から上海へ帰り、街路風景や、食物屋、散髪店などのスケッチをこころみた。
 一体、支那人の着ている服はどういうぐあいにつくられているのであろうかと思い、支那服を一着買うつもりになった。支那服や支那織の布地を売っている専門店の売り場に私の気に入った服が二着並んでいたが、そのうち模様のいい方を一着もとめた。帯にでもするのだろうか、地紋様の美しい布を買っている日本人もあった。私は沢山必要でないが、とてもいい紋様の布地があったのでそれを五、六寸きって売ってくれと言ったところが、売場の支那人が切るのは困ると言ってどうしても売ってくれない。するとちょうど売場の向こう側にいた日本婦人が、突然私の方に向かって、先生この着物にはどちらの帯が似合いましょうか見わけて下さいと言って、着物に対して似合いの帯を二つ持って来て私のまえに拡げるのである。私たちのことが上海の新聞に出ていたので、この櫛巻にした私の姿を知っていたのであろう。そこで私は自分のいいとおもうのを言ってあげた。その日本婦人は大へん喜んでさっそくそれを買ったのであるが、その時その婦人が支那人の店員に切ってあげなさいという意味の言葉を支那語で言ってくれたので、やっとのこと私は欲しかった布地を切って売ってもらうことが出来た。
「ほかの人キラン、今日は特別キル」
 売場の支那人がそんな愚痴をこぼしていた。
 人にすすめられて二階つきのバスにも乗ってみた。バスを降りようとすると、沢山の支那人が降り口に押し合っていて年寄りの私などなかなか降りることが出来そうもない。困惑していると、メンメンチョ、こう言って車掌が乗り手を止めて私を降ろしてくれるのであった。
 支那靴などにもとても美しいものがあった。龍や花紋様が刺繍で色美しく入れてあってなかなか美術的なものである。私はそれも買い入れた。何も支那靴など買って来てそれを穿こうというわけではないが、その美しさにひかれて買ってしまったのである。

        連絡船

 往路の長崎丸は静かな船旅であったが、帰途の神戸丸は上海を出離れるとすぐからすこしゆれだした。人々はすぐ寝こんだので私もそれにならい、ついに船に酔わずに戻ることが出
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