こういう細工物の産出額は相当大きな金額にのぼるのだそうで、だからここでは芦や葭を非常に大切にするのだということであった。金山寺はずいぶん大きな寺であった。相当遠いところではあったが、自動車で楽にみることが出来た。
 甘露寺へ行くと、石の段がずっと上まで続いている。石段の登り口のあたりにきたない民家がある。そこから四つぐらいから十までくらいのまずしい子供たちが出て来て、その石段をのぼるのに参詣者の腰を後から両手で押してくれるのであった。そして貰う駄賃がこの子供たちの収入になるのであった。その中にやはり貧しい子供には、昔の唐子をおもわせるような髪をしたのがいた。前のほうや、耳の上だけやに毛をのこして、あとはくりくりに剃って、残した毛を三つ組に編んだのや、つまんでしばったのや、いかにも昔の絵にある唐子のような風俗がこんな片田舎に却って残っているのを、不思議ななつかしみをもって眺めずにはいられなかった。
 私の腰を三人ほどの子が押してくれるけれども私はそんなに早く歩くことが出来ないので、子供たちから漫々的、漫々的、めんめんちょとからかわれるのであった。そしてそのなかにかあいらしい子供、唐子をおもわせる、そんな子供も交っているのを見受けたのである。

        煙雨楼

 抗州から上海への帰路、嘉興の煙雨楼というのに立ち寄ってみた。
 嘉興という処はちょっと島みたいになっている。私の泊った家は、外から見ると支那風になっているが、内部は日本風に適した宿屋であった。欄干は支那風にしていて、庭園に太湖|石《せき》などがおいてあった。
 この宿に泊って、朝、手水を使うていると、とても巨きな鳥が人間になれて近々とやって来る。白と黒との染め分けになっている鵲である。これは支那鳥などと俗に言われている、これが沢山いた。しかし日本で見受けるような真黒の鳥もいた。
 煙雨楼へゆくには自動車からおりて少し歩いて、それから船にのってゆくのだが、その船を姑娘船という。若い娘が船を漕いでゆくのもある。姑娘のきれいなのが船をこぐのだという。この船の中が彼女らにとっては自らの家なのである。生活のすべてなのである。私もその船へはいって姑娘を写生した。船の中に赤い毛布をのばして敷き、それにくるまってねるのである。狭い船を自分の家にして住まっている。船には網代の苫のようなものが三つほどあって、真中に鏡台や
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