ら世帯道具やらがおいてある。大体母と娘だが、なかには娘だけ二人住んでいるのもあった。
それら姑娘船の娘たちの中にはなかなかきれいなのもいて、パーマネントをかけたりしているが、それは日本のとはちがって支那風にそれをうまくこなしていて、支那服と髪とがよく調和を保っていた。娘たちはうっすらと化粧をほどこしている。また彼女らはいかにもきめがこまかできれいである。すべて油でいためてたべるというその風習のためなのであろうか、きめが大へん美しい。嘉興の煙雨楼は湖中の島なので景色のいいところであった。
汪精衛閣下
上海へ帰って、十三日の朝八時急行で南京へ出発したが、その日の午後三時頃着いた。南京の城内へはいって、首都飯店におちついた。それから着物を着換えて、汪精衛閣下におめにかかることになっていた。午後四時というお約束だったので早速出かけた。
汪精衛閣下の応接間は非常に広い部屋で、菊の花がとても沢山咲き匂うていた。幾鉢も幾鉢も大きな鉢植の菊が、黄に白に咲き薫っている様は実に立派なものであった。砂子地の六曲屏風に鶴を描いたのが立てられてあって、これは日本の画家の筆になるものであった。
汪精衛閣下は日本語に詳しいという話であったが、やはり支那語で話されて通訳がそれを日本語にして私に話しかけられるのであった。
「どういう風な画風をやられますか、山水ですか、人物ですか?」
私は風俗画をやると申し上げた。六十七歳というともはや七十歳にすぐということを華中鉄道の人が言ったので、大へんおどろいて居られた。
「そのお齢でこの遠いところへ、よくおいでになる決心をされた」
そう言って感心もして居られた。
私も支那語が分からなかったけれども、しかし雰囲気が至極なごやかで、ごくくつろいだお話を承わったのであった。
あちらの新聞社の写真班がそこへ来ていた。華中鉄道の人たちも記念の写真を撮ることになっていた。汪精衛閣下はその時、室内は光線が悪かろうと支那語で言って居られて、庭園の中へ出て、御自身で扉をしめられたり、陽ざしのいい明るいところへ御自身で一同を導いてゆかれるのであった。そこにもまた黄菊、白菊が咲き乱れてまことによい香りをはなっていたが、ここらがよろしかろうというので、そこで皆が並んで写真を撮影したのであった。
お話のはしはしからでも、汪精衛閣下が絵に対してもなか
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