い気持ちが、年少の孟子の心を激しくゆすぶったのである。
 孟子は、その場で、自分の精神の弱さを詫びて、再び都へ学問に戻った。

 数年ののち、天下第一の学者となった孟子に、もしあのときの母親のきびしい訓戒がなかったなら、果たして孟子は、あれだけの学者になれていたであろうか。
 まことに、賢母こそ国の宝と申さねばなりますまい。

「孟母断機」の図を描いたのは、明治三十二年であった。
 そのころ、わたくしは市村水香先生に就いて漢学を勉強してい、その御講義に、この話が出たので、いたく刺戟されて筆を執ったものであるが、これは「遊女亀遊」や「税所敦子孝養図」などと、一脈相通ずる、わたくしの教訓画として、今もって懐かしい作のひとつである。

「その父賢にして、その子の愚なるものは稀しからず、その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
 息軒安井仲平先生のお言葉こそ、決戦下の日本婦人の大いに味わわなくてはならぬ千古不滅の金言ではなかろうか。そして孟母の心構えをもって、次代の子女を教育してゆかねばならぬのではなかろうか。
 ――孟母断機の故事を憶うたびに、わたくしは、それをおもう
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