中では、俵屋宗達もあれば又兵衛もありました。よく版画などで見ている、あの若衆と娘が手毬をついている図の屏風なども陳列されてありましたが、そんなものの結構さは申すまでもありませんが、無落款のものの中に、とても面白いものがあったようです。むろんこんなのは、その時分の巧者な作者の筆に成ったものであることはいうまでもありますまいが、誰の作なんだか分りません。中には想像のつくものもないではありますまいが、結局想像は想像に過ぎません。いいものは落款の有無には関わらないことです。
一たいに、見た感じを率直に申しますと、どうも浮世絵画家の筆は、やはり上木《じょうぼく》された結果のもの――すなわち錦絵になったものの方が、数等結構なものに思えます。春信でも英之でも歌麿でも、どうもその肉筆物は錦絵で見るような、あの魅力がないようです。やはり浮世絵画家の筆は錦絵の上で賞玩すべきものだと私は思います。
○
錦絵のもつあの艶美な夢心地のような韻致《いんち》――と申しますか、匂いと言いますか、人の魂に滲みこんでくるあの柔かな迫力は、どうも肉筆には見られないのでした。前に申しました春信、英之、歌麿
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