ある。
私は画をかくことが愉しみになった。両先生の長所に自分の長所と三つのものをプラスした画風――松園風の画を確立しだしたのはこのときからであった。
楳嶺先生は門下の人たちに対しては実に厳格であった。
姿勢ひとつくずすことも許されなかった。
「正姿のない処に正しい絵は生まれぬ」
これが先生の金言だった。
楳嶺先生の歿せられたのは明治二十八年の二月だった。
師縁まことにうすく入塾後二年目で永のお別れをしなければならなかった訳であるが、私にとっては巨大な光りを失った思いだった。
私の二十一歳の春であった、先生にお訣れをしたのは……
しかし、その頃には、私も自分の画風をちゃんと身につけていたので精神的にはひどい動揺は来たさなかった。
ただ、これから自分のまっとう[#「まっとう」に傍点]な絵を見て貰えるという時にお訣れしなければならなかったことはまことに残念であった。
先生の歿後、門人たちは相談の末に楳嶺門四天王の塾へそれぞれ岐れることになったのである。
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菊地芳文
谷口香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]
都路華香
竹内栖鳳
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