ッチしたものが今でも手許に一枚あるが、松年先生の塾のことを憶うたびに思い出すひとりである。

 先生は大正七年七十歳でなくなられた。
 日本画壇の大きな存在のひとりであった。

        幸野楳嶺先生

 松年先生の塾に通っていた私は、種々の事情のもとに、ひとつはより広い画の世界を見なくてはならぬと考えたので、昔流に言えば他流を修得するために、松年先生のお許しを得て幸野楳嶺先生の塾へ通った。
 楳嶺塾は京都新町姉小路にあって、当時幸野楳嶺といえば京都画壇というよりは日本画壇の重鎮として帝室技芸員という最高の名誉を担っていられ、その門下にもすでに大家の列に加っている方々もいられた。
 私はそれらのえらい画家たちに伍して一生懸命に、たった一人の女の画人として研究にはげんでいったのである。
 菊地芳文・竹内栖鳳・谷口香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]・都路華香などという一流画家を門下に擁して楳嶺先生は京都画壇に旭日のように君臨していられたのである。

 同じ四条派の系統でも、松年先生の画風は渋い四条派で筆力雄渾だったが、楳嶺先生の画風は派手な四条派で、筆も柔かいものをお使いに
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング