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の四人の方のうち、私は栖鳳先生塾へ他の十数名の人たちと一緒に通った。
竹内栖鳳先生
松年先生、楳嶺先生を失った私は、昨年の秋最後の恩師竹内栖鳳先生を失った。
楳嶺・松年の両大家を失った時以上の打撃を日本画壇がうけたことは言うを俟たない。
栖鳳先生ほどの大いなる存在は古今を通じてはなはだその例が少ないであろうと思う。
京都画壇の大半は栖鳳門下からなりたっていると言っても過言ではない。
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橋本関雪
土田麦僊
西山翠嶂
西村五雲
石崎光瑤
徳岡神泉
小野竹喬
金島桂華
加藤英舟
池田遙邨
八田高容
森 月城
大村広陽
神原苔山
東原方僊
三木翠山
山本紅雲
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「栖鳳先生の偉大さは?」
と訊かれたら、以上の門下の名前を挙げればよい。
あとは言うまでもない。古今を通じての偉大なる画人だと私は思っている。
先生は常に写生をやれ写生をやれ――と言われた。
画家は一日に一枚は必ず写生の筆をとらなくてはいけないと言われ、先生ご自身は、どのような日でも写生はおやりになっていられたようである。
晩年はほとんど湯河原温泉にお住みになっていられたが、七十九歳という高齢でおなくなりになられるまで写生はなされたと聞いている。
私などの縮図やスケッチに駈け廻るぐらい、先生の写生に較べると物の数にもはいらないのである。
入塾した当時は、偉い門人の方が多かったので、私は「こりゃ、しっかりやらぬと――」
と決心をし、髪も結わずに――髪を結う時間が惜しいので、ぐるぐるの櫛巻にして一心不乱に先生の画風を学んだり、先生のご制作を縮図したりしたものである。
写生を非常にやかましく言われただけあって、先生の塾では、よく遠方へ弁当持ちで写生に出掛けたものである。
私も女ながら、男の方に負けてはならぬ、と大勢の男の方に交って泊りがけの写生旅行について行ったものである。
先生も厳格なお方であった。楳嶺門下四天王の第一人者であっただけに、楳嶺先生の厳格さを身に沁みこませていられた故ででもあろうか、楳嶺先生に劣らない正姿の人であった。
しかしまた一面お優しいところもあって、ご自分の大作を公開以前に私たちによく縮図することをお許しになられたことなど、先生の大器量を示すものと言わねばなるまい。
栖鳳以前に栖鳳なく
栖鳳以後に栖鳳なし
――と誰かが言った。よく言った言葉だと私はそれをきいたとき私《ひそか》にうなずいた。
栖鳳先生の伝記的映画がつくられるとき、どのように描かれるものか、たのしみである。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年4月24日作成
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