弟子が数人ゐたが、其内私は中井|楳園《はいえん》さんと一番親しくしてゐた。香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]《こうきよう》さんの塾の二見《ふたみ》文耕《ぶんこう》さん、後に小坡と云ふ名になり伊藤姓になられたのはずつと後だと思ふが、その小坡さんや六人部《むとべ》暉峰《きほう》さん、景年さんの塾の小栗何とか言はれた人、夫れに私の六人が、丁度先輩から言つてもどつこいどつこいだつたので、月一回近郊の写生旅行をする事になつた。
今の様に自動車はなし勿論電車さへ無い頃だつたので、各自お弁の用意をして、後結ひ草履で、朝四時頃から揃つては鞍馬や宇治田原あたりに行つた事がある。写生帖を見ると、宇治田原あたりの田舎家や渓流など丹念に写されて居り、編物をしてゐる楳園さんのお若い娘姿もある。
栖鳳《せいほう》先生が西洋から帰へられて二、三年後大阪で博覧会が開かれた。其時先生は羅馬《ローマ》古城趾真景を出品されたが、其年前後から栖鳳先生の塾で近郊写生旅行が繁々行はれた思ひ出がある。
先生も洋服を着て一緒に行かれたが、内畑暁園、八田青翠、千種草雲と云ふ様な人達が中心になつて、私も後からよくついて
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