て見ると、夫れは松年先生の絵で、日出新聞※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵の筆法に傚《なら》ふとか云ふ文句が、矢張り先生の筆跡で傍書してあつたりする。
 松年先生はよく私に墨を磨《す》らせた。墨は男がすると荒つぽくていかぬが、女の子が磨るとこまかでいいと言はれて、よく私は墨すりをやらされた。大きな机の上に置《おき》洋灯《ランプ》があつて、其《その》側《そば》の棚にグルグル巻きにした描きさしの絵があつた。先生は夫れを一枚一枚とりだしては筆を加へられた。恁《か》ふ左の手を懐中にしてサツサツと筆を動かされる。或る程度迄描き進めてはクルクルと巻いてポイと側に抛り、又次の絵を伸べる。さうした事が毎晩の事だつた。
 そんな絵を私達はよく模写したものだつた。月に一回十五日に研究会があり、春四月と秋十月には大会があつた。会場は円山の牡丹畑で、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》時はいつも百年先生の塾と合併で、塾の先輩達がズラツと並んで席上をやつた。時には矢張り鈴木派の人達ばかりで演説会があつた。斎藤松洲とか天
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