作画について
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天日《あまつひ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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自分の画歴をふりかえって見ますと、ある時代には徳川期の錦絵的な題材を好んで主題にとっていたり、またある時代には支那風の影響に強く支配されていたりして、いろいろと変遷してきたものです。
ですから画題も明治二十八年第四回内国博出品の「清少納言」や、その後の「義貞勾当内侍を視る」「頼政賜菖蒲前」「軽女悲惜別」「重衡朗詠」また小野小町、紫式部、和泉式部、衣通姫などの宮中人物、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]、女房等々、歴史のなかから画材を選んだ作画もあり、「唐美人」などのような支那の歴史から取材して描いたものもある、と言ったような……
これは私がそれぞれの時代の勉強からいろいろなかたちで影響されつつ描いた、言わば試作であり習作であったのですが、幼い頃から漢学、歴史は好き嫌いの別なく自分の修養の世界でありましたし、ことに絵画的場面をひと一倍興味深く読み覚えていたせいもありましょう。
私が一番最初に通った儒学者は市村水香先生で、その市村先生のところへは夜分漢学の素読やお講義を聴きに参りました。
当時絵に志すほどのものはほとんど漢学の勉強が必要であって、それが素養とも基礎ともなったものでした。
ですから皆それぞれ漢学の塾へ通い、長尾雨山先生の長恨歌などのお講義はよく聴いていたものでした。
また、寺町本能寺にも漢学の研究会というものが出来、ひと頃そこへも漢学のお講義をきくために通ったものです。
折々休むこともあり、制作中などは手が離せず欠席もしたことがありますが、それでもだいぶ永いこと通いました。
勉強ともあれば博物館にも出掛けて行って、支那絵の古画、絵巻物、ときどきは仏画などをも参考に資するべく、わざわざ奈良の博物館へ弁当持参で参ったものです。
その時代によって好みが移ってくるが、いろいろな画材をいろいろな角度から勉強し得たことは結局自分にとってこの上もないよい体験であったと思っています。
年少の頃から、研究の推移をふり返ってみますと、大体において南宗、北宗から円山四条派におよび、土佐や浮世絵などをもくぐって来、それに附加して博物館とか神社仏閣の宝物什器、市井の古画屏風を漁り、それぞれの美点と思われるところを摂取して、今日の私流の絵が出来上ったという次第であります。
花ざかり
「花ざかり」は私の二十六歳のときの作品で、私の画業のひとつの時期を画した作品と言っていいかも知れません。
その時代にまだ京都に残っていました花嫁風俗を描いたもので、この絵の着想は、私の祖父が「ちきり屋」という呉服商の支配人をしていた関係から、そこの娘さんがお嫁入りするについて、
「つうさんは絵を描くし、器用だし、ひとつ着つけその他の世話をして貰えないか」
と、ちきり屋の両親にたのまれましたので、その嫁入り手伝いに出掛けた折り、花こうがい、櫛、かんざし、あげ帽子など、花嫁の姿をスケッチし、附添いの母の、前にむすぶ帯までスケッチしたのが、あとになって役立ったのでした。
今ならば美容院で、嫁入り衣裳の着つけその他万端は整うのですが、当時は親類の者が集まってそれをしたものです。
私はいろいろと着つけをして貰っている花嫁の、恥ずかしい中に嬉しさをこめて、自分の体をそれら親類の女たちにまかせている姿をみて、全くこれは人生の花ざかりであると感じました。
そこで、その日の光景を絵絹の上へ移したのですが、華やかな婚礼の式場へのぞもうとする花嫁の恥ずかしい不安な顔と、附添う母親の責任感のつよく現われた緊張の瞬間をとらえたその絵は――明治三十三年の日本美術院展覧会に意外の好評を博し、この画は当時の大家の中にまじって銀牌三席という栄誉を得たのであります。
正に私の花ざかりとでも言うべき、華やかな結果を生んだのでした。
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(授賞席順)
金牌 大原の露 下村観山
銀牌 雪中放鶴 菱田春草
木蘭 横山大観
花ざかり 上村松園
秋風 水野年方
秋山喚猿 鈴木松年
秋草 寺崎廣業
水禽 川合玉堂
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恩師鈴木松年先生が、自分の上席に入賞した私のために、最大の祝詞を送って下さいましたことを、私は身内が熱くなるほど嬉しく思い
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