ました。
「花ざかり」は私の青春の夢をこの絵の中に託したもので、私にとって終生忘れ得られぬ一作であります。
私の閨秀画家としての地位はこのあたりから不動のものとなったとも言えるでしょう。
遊女亀遊
「遊女亀遊」は明治三十七年京都の新古美術展覧会に出品したもので、私の二十九歳の作です。
遊女亀遊は、横浜の岩亀楼のはしたない遊女でありますが、外国人を客としてとらねばならぬ羽目におちいったとき、大和撫子の気概をみせて、
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露をだにいとふ大和の女郎花
降るあめりかに袖はぬらさじ
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という辞世の一首を残して、自害した日本女性の大和魂を示した気概ある女性であります。
当時アメリカ人やイギリス人と言えば幕府の役人まで恐れて平身低頭していた時代で、これも何かの政策のために、そのアメリカ人に身を売らされようとしたのでありましょう。
それをアメリカ人何ぞ! という大和女性の気概をみせて、悠々と一首の歌に日本女性の意気を示して死んで行った亀遊の激しい精神こそ、今の女性の学ばなくてはならぬところのものではないでしょうか。
女は強く生きねばならぬ――そういったものを当時の私はこの絵によって世の女性に示したかったのでした。
亀遊のこの歌をみるごとに、私は米英打つべし! を高らかに叫んだ水戸の先覚者、藤田東湖の歌を想い出すのです。
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かきくらすあめりか人に天日《あまつひ》の
かゞやく邦の手ぶり見せばや
神風のいせの海辺に夷らを
あら濤たゝし打沈めばや
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東湖のこのはげしい攘夷の叫び声にも負けない気概を、遊女亀遊はこの辞世の一首に示しているのであります。
いわば「遊女亀遊」のこの一作は私の叫び声ででもあったのです。
この絵について憶い出すのは、会場のいたずら事件です。
画題がめずらしかったので、会場ではこの絵は相当の評判になって、この絵の前にはいつも人だかりが絶えなかった。
ところが、女の私の名声をねたむ人があって、ある日看守のすきをねらって、何者とも知れない不徳漢が、亀遊の顔を鉛筆でめちゃめちゃに汚してしまったのです。
そのことを発見した事務所の人が、私の家へやって来て、
「えらいことが起こりました。誰か知らんがあなたの絵を汚しました。それであのままにして置いてはみっともないから朝のうちに来て直して下さい」
との挨拶でした。それだけ言ったきりで、陳謝の意も表さず、責任のない顔をしているのが私には気に入りませんでした。亀遊をかいた当時の私は「女は強く!」ということを心から叫んでいたので、
「誰がしたのですか。卑怯な行為です。おそらく私にへんねし[#「へんねし」に傍点]を持っている者がやったのでしょうが、それなら絵を汚さずに私の顔にでも墨をぬって汚してくれればよい。かまいませんからそのままにして置いて下さい。こっそり直すなんて、そんな虫のいいことは出来ません」
私は肚がたったので、そう答えました。
女とみてあなどっていた事務所の方も、私の態度があまりに強硬でしたので、あわててあらためて取締不行届を陳謝して参りましたので、私もそれ以上追及しませんでした。
間もなく会期も終るので、そのままにして置きましたところ、物好きな人がいて、あの絵をぜひ譲ってほしいと言って来ましたので、私は念のために鶯の糞で顔の汚れをふきましたら奇麗にとれたので、それを譲りましたが、犯人はそれきり判らずじまいでした。
焔
「焔」は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。
中年女の嫉妬の炎――一念がもえ上って炎のようにやけつく形相を描いたものであります。
謡曲「葵の上」には六条御息女の生き霊が出て来ますが、あれからヒントを得て描いたもので、最初は「生き霊」と題名をつけましたが、少し露わすぎるので、何かいい題はないかと思案の末、謡曲の師の金剛巌先生に相談したところ、「『生き霊』のことを『いきすだま』とも言うが、しかし『いきすだま』とつけても生き霊と同じい響きを持つから――いっそう焔とつけては」
と仰言いましたので、焔という字は如何にも絵柄にぴったりするので、私はそれに決めた訳です。
葵の上は光源氏の時代を取材したものですが、私はそれを桃山風の扮装にしました。
思いつめるということが、よい方面に向えば勢い熱情となり立派な仕事を成し遂げるのですが、ひとつあやまてば、人をのろう怨霊の化身となる――女の一念もゆき方によっては非常によい結果と、その反対の悪い結果を来たすものであります。
どうして、このような凄艶な絵をかいたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいですが、あの頃は私
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