の芸術の上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材にもとめて、それに一念をぶちこんだのでありましょう。
あの絵は大正七年に描いたもので、文展に出品したものであります。
あの焔を描くと、不思議と私の境地もなごやみまして、その次に描いたのが「天女」でした。
これは焔の女と正反対のやさしい天女の天上に舞いのぼる姿ですが――行きづまったときとか、仕事の上でどうにもならなかった時には、思いきってああいう風な、大胆な仕事をするのも、局面打開の一策ともなるのではないでしょうか。あれは今憶い出しても、画中の人物に恐ろしさを感じるのであります。
序の舞
「序の舞」は昭和十一年度、文部省美術展覧会に出品しました、私の作品の中でも力作であります。
この絵は、私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている「女性の姿」であります。
この絵は現代上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞の中でも序の舞はごく静かで上品な気分のするものでありますから、そこをねらって優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。
序の舞は、ひとつの位をもった舞でありまして、私は型の上から二段おろしを選んで描きました。
何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志を、この絵に表現したかったのです。幾分古典的で優美で端然とした心持ちを、私は出し得たと思っています。
この絵は私のあとつぎである松篁の妻のたね子や、謡の先生のお嬢さんや、女のお弟子さんたちをモデルに使いましたが、たね子を京都で一番上手な髪結さんのところへやって一番上品な文金高島田に結わせ、着物も嫁入りのときの大振袖をきせ、丸帯もちゃんと結ばせて構図をとったのであります。
最初は上品な丸髷に結った新夫人を、渋い好みの人にして描くつもりで、丸髷にして写生をはじめたのでしたが、舞の二段おろしになりますと短い留袖では袖が返りません。
この袖を返すところに、美しい曲線があり絵の生命も生まれてくるので、急に令嬢風に改め振袖姿にしたのであります。
髷のふくらみ、びんの張り方、つとの出し方が少し変っただけでも、上品とか端麗とかいった感じが失われてしまいます。
そういう細かい点にはいってくると、女の方でないと、男の方にはとてもお判りになりません。
その点についてはずいぶんと苦労をしました。
私は芸妓ひとつ描く場合でも、粋ななまめかしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮らしい感じがすると人に言われます。
「天保歌妓」(昭和十年作)などにそれがよく現われていますが――しかし、それも私の好みであってみれば止むを得ません。
「序の舞」は政府のお買上げになったもので、私の「草紙洗小町」「砧」「夕暮」の老境に入っての作の一画をなす、いわば何度目かの画期作とも言うべきものでありましょう。
夕暮
私の母はすべての点で器用なひとでありましたが、書画もよくし、裁縫などにもなかなか堪能で、私は今でも母が縫われた着物や羽織などを大切にしまって持っております。
それはこの上ない母のよいかたみになっているのです。
私の家は、前述のように、その頃ちきり屋と言って母が葉茶屋をいとなんでおりましたが、その母屋の娘さんの着物など母はよく縫ってあげていたものでした。
裏の座敷でせっせと、一刻のやすむ暇も惜し気に、それこそ日の暮れがたまで針の手を休められない。
西陽はもう傾《かし》いであたりはうすぼんやりと昏れそめても、母は気づかぬげにやはり縫い続けておられる。
私は晩御飯の用意を心配して、子供ごころに空腹を案じながら、そのうしろにじっと坐って母の背中を凝視《みつ》めている。
ふと、静かな母の針の運びが止まる。
「もうちょっと、ほんのこれだけ縫うたらしまいのんやよって……ほんに陽のめが昏《く》ろうなった……」
半ば独りごち、半ば背後の私に言うかのように小さな声でそう言われて、つと障子の傍らまでいざり寄られ、針を眼の高さまで挙げ、右の手には縫糸の先を持たれたままの格好で、片方の眼をほそく細く閉じられて、じっと針の目を通そうとなさっている……その姿が私の幼ごころにも、この上なくひとすじに真剣な、あらたかなものに想われたものでした。
ざっとあれから五十年の歳月が経っていますが、今でも眼を閉じると、そんな母の姿がありありと私の網膜に映じて消ゆることがありません。
私の第四回文展出品作「夕暮」は、徳川期の美女に託して描いた母への追慕の率直な表現であり、私の幼時の情緒への回顧でもあります。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川
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