、夕方になって二文字屋を訪ねた。
もう逢えないのかと哀しんでいたお軽は、内蔵助の訪問をうけて、どのように悦んだことであろう。しかし、それも束の間で、いよいよ明日は、
「岡山の国家老池田玄蕃殿のお招きにより岡山へ参る」
と、いう内蔵助のいつわりの言葉をきいてお軽も二文字屋もがっかりしてしまったのである。
二文字屋が、せめてもの名残りにと、ととのいもてなした酒肴を前にして、内蔵助もさすがにもののふ[#「もののふ」に傍点]の感慨に胸をあつくしたことであろう。
お軽はうち萎れながらも、銚子をとって内蔵助に別れの酒をすすめた。
内蔵助は、それを受けながら、何を思ったか、
「軽女、当分の別れに、一曲……」
と、琴を所望した。お軽は、この哀しい今の身に、琴など……と思ったのであるが、お別れの一曲と所望されては、それを断わりもならず、それでは拙い一手を――と言って、秘愛の琴をとり出し、松風を十三絃の上に起こし、さて、何を弾じようかと思案した末、内蔵助の私《ひそ》かなる壮行を祝して、
(七尺の屏風も躍らばよも踰《こ》えざらん。綾羅の袂も曳かばなどか絶えざらん)
と歌って、絃の音にそれを託
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