古い記憶を辿って
山元春挙追悼
上村松園

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)代赭《たいしゃ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](昭和九年)
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 その頃の絵は今日のように濃彩のものがなくて、いずれもうすいものでした。ちょうど春挙さんの海浜に童子のいる絵の出た頃です。そのころは、それで普通のようにおもっていたのでした。今日のは、何だか、そのころからみるとずっと絵がごつくなっているとおもいます。
〈法塵一掃〉は墨絵で、坊さんの顔などは、うすい代赭《たいしゃ》で描かれていました。尤も顔の仕上げばかりではなしに、一体にうすい絵でした。この作品が出品された年は、ちょうど栖鳳先生が、西洋から帰られた年でして、獅子の図が出品されました。その時分に屏風などが出ていましたが、しかしまたとても今日の展覧会などに出品されそうもないような小さな作品も出ていました。寸法に標準というものがまるでなかったのでした。
 私が二十五、六か七、八歳頃、森寛斎翁はなくなられましたが、その頃の春挙さんには、私もよくおめにかかっていました。塾がちがった
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