ように展覧会等も度々あるというわけには参りませんので、よい絵を見る機会がなかなかありません。人からどこそこにこういうよい絵があると聞きますと、それこそ、千里も遠しとせず拝見に上がりました。また、名家の売立などにも、よいものがありますので、必ず見に参りました。博物館へはお弁当持ちで一日出かけたものです。そして必ず写生帳に写しとって来ました。お寺にはよい絵がありますので京都はもちろん奈良までよく出かけました。こうして、支那日本の古画を丹念に模写しました。
 博物館などにゆくと、貫之の美しいかながきなどがありますが、またむずかしい字を巧《うま》く、くずし方などあると、絵の横に書きとって来ることがありました。これが自然手習いになったようです。ある大名の売立に行くと、美事な貫之のかながきの巻物がありましたので、一、二行うつすつもりで書き始め、とうとう巻物全部をうつし取ってしまいました。傍の人に、あなたの方がうまいなどと、ひやかされたことがあります。若い時から、折々に描きためた、こうした縮図本が、今私の手許に一山ほどになっています。苦心して見つけ、手を労して写した古画など、二十年、三十年のものでも、判然《はっきり》と今も目に浮かびます。けれど、その後便利な世の中になって、写真版などで見たものは、その時はよく覚えていても、直《じき》にすっかり忘れてしまいます。この縮図本を繰る毎に、その頃のさまざまな思い出がなつかしく思い出され、私には一番大切なものになりました。
 後年のことですが、私の家の近くに火事が起こりました。一時は風下になり、もう危いから荷物を出すようにといわれました。この家は自分で建てたものだが、まあ焼けるならそれも仕方がない。さて、何か大事なものをと思った瞬間、頭に浮かんだのはあの縮図本でした。そうそう、あれあれと大風呂敷を持って二階に上がり、縮図本をすっかり包みました。そのうちに風向きが変わり、もう心配はないというので、三階に上がり、男達のいる屋根にのぼり、消防につとめる様を、こういう光景は滅多に見られるものではないと、そんな余裕も出てよくよく観察したものでした。

     初の入賞は十五歳の時

 私の絵が展覧会に入賞したのは、明治二十三年、十五歳の時でした。東京で催された第三回内国勧業博覧会に、「四季美人」を出品しましたのが、一等褒状となりました。四人の四季の美人を、二尺五寸に五尺の大きさに描いたものでした。これが当時我が国に御来遊中であった英国の皇子コンノート殿下のお目に止まり、お買上げの栄に浴しました。その時、京都の日の出新聞に出た記事が、最近の紙上に再録されておりましたので、面白く思い、切り抜いておきました。何でも十五歳の少女の画が一等褒状、その上英国皇子お買上げの栄に浴したと大分もてはやしてありました。今ちょっと見当たらず、お目にかけることはできませんが。
 かくして、私の絵筆の生涯の幕が開かれたのでございますが、別に一生絵で立とうと考えてはおりませんでした。けれど私の画業は、次のように進んでおりました。
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明治二十四年 東京美術協会「和美人」一等褒状
同年     全国絵画共進会「美人観月」一等褒状
同 二十五年 京都春期絵画展覧会「美人納涼」一等褒状
同年     米国シカゴ博出品(農商務省下命画)「四季美人」二等賞
同 二十六年 東京美術協会「美人合奏」三等銅牌
同 二十七年 東京美術協会「美人巻簾」二等褒状
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 本当に、絵で一生立とうと考えたのはこの後で、二十歳か、二十一歳の時でありました。それからは、花が咲こうと、月が出ようと、絵のことばかり考えておりました。
 母は一人で店を経営し、夜は遅くまで裁縫などしながら、私の画業を励ましてくれました。

     烈しい勉強

 それからの私は、心は男のように構えておりましたが、悲しいことに、形は女の姿をしております。そのために勉強の上にも、さまざまな困難がありました。私は体は小さくても、生来母譲りの健康体を持っておりましたから、烈《はげ》しい勉強にはいくらも堪えられました。けれど写生などに行きたくとも、若い女の身で、そうやたらな所へ一人で行くことはできません。仕方がないので、男学生十二、三人の写生旅行に加わって行きました。朝は、暗いうちに起きて、お弁当を腰につけ、脚絆をつけて出かけます。日に、八里、九里も男の足について歩きました。歩いては写生し、写生しては歩くのです。ある時は吉野の山を塔の峰の方まで、三日間、描いては歩く旅行をしました。家に帰ると流石に足に実《み》が入って、大根のように太くなり、立つ時は掛声でもかけないと立てないほどになったことがありました。
 お陰で今も足はたいへん丈夫でございます。四、五年前、信州の発哺《はっぽ》[#ルビの「はっぽ」は底本では「はっぱ」]温泉に行きましたが、あの急な山道を平気で歩いて登りました。

     私の制作年表

 その後の、私の制作を年代順に並べますと、次のようなものでございます。これ等は展覧会に出品したものばかりで、この他に依頼されたものなどを大分描いております。

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明治二十八年 「清少納言」第四回内国勧業博出品(二等褒状)「義貞勾当内侍を観る」青年絵画共進会出品(三等賞銅牌)
同 二十九年 「暖風催眠」日本美術協会出品(一等褒状)「婦人愛児」日本美術協会出品(一等褒状)
同  三十年 「頼政賜菖蒲前」日本絵画協会出品(二等褒状)「美人観書」全国婦人製作品展出品(一等褒状)「一家楽居」全国絵画共進会出品(三等銅牌)「寿陽公主梅花粧」日本美術協会出品(三等銅牌)
同 三十一年 「重衡朗詠」新古美術品展(三等銅牌)「古代上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]」日本美術協会出品(三等銅牌)
同 三十二年 「人生の春」新古美術品展出品(三等賞)「美人図」全国絵画共進会出品(銅牌)「孟母断機」
同 三十三年 「花ざかり」日本絵画協会出品(二等銀牌三席)「母子」巴里万国博出品(銅牌)「婦女惜別」新古美術展創立十周年回顧展出品(二等銀牌)
同 三十四年 「園裡春浅」新古美術品展出品(一等褒状)「吹雪」第一回岐阜県絵画共進会出品(銅牌)「半咲図」絵画研究大会展出品(銅牌)
同 三十五年 「時雨」日本美術院展出品(三等賞)
同 三十六年 「姉妹三人」第五回内国勧業博出品(二等賞)「春の粧」北陸絵画共進会出品(銅牌)
同 三十七年 「遊女亀遊」新古美術品展出品(四等賞)「春の粧ひ」セントルイス万国博出品(銀賞)
同 三十八年 「花のにぎはひ」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 三十九年 「柳桜」新古美術品展出品(三等銅牌)「税所敦子孝養図」
同  四十年 「花のにぎはひ」北陸絵画共進会出品(一等賞)「虫の音」日本美術協会出品(三等賞)「長夜」文展第一回出品(三等賞)
同 四十一年 「月かげ」文展第二回出品(三等賞)「桜がり」北陸絵画共進会出品(一等金牌)「秋の夜」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 四十二年 「花見」ロンドン日英博覧会出品「花の賑ひ」ローマ万国博出品(金大賞)「虫の音」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 四十三年 「人形つかひ[#「人形つかひ」は底本では「人間つかひ」]」新古美術品展出品(二等銀牌)「花」巽画会展出品(二等銀牌)「上苑賞秋」文展第四回出品(三等賞)
大正  二年 「化粧」「螢」文展第七回出品(三等賞)
同   三年 「娘深雪」大正博出品(二等一席)「舞仕度」文展第八回出品(二等賞)
同   四年 「花がたみ」文展第九回出品(二等賞)
同   五年 「月蝕の宵」文展第十回出品(推薦)
同   七年 「焔」文展第十二回出品「天人」
同  十一年 「楊貴妃」帝展第四回出品
同  十五年 「娘」聖徳太子奉賛展出品「待月」帝展第七回出品
昭和  三年 「草紙洗」御大典記念御用画
同   四年 「伊勢大輔」「新螢」伊太利日本画展出品
同   五年 「春秋二曲屏風一双」高松宮家御用画
同   六年 「虫ぼし」独逸ベルリン日本画展出品
同   七年 「虹を見る」
同   八年 「春秋双幅」高松宮家御用品
同   九年 「青眉」京都市展出品「母子」帝展第十五回出品
同   十年 「天保歌妓」春虹会展出品「鴛鴦髷」東京三越展出品「春の粧」大阪美術倶楽部記念展出品「土用干」東京三越展出品「夕べ」五葉会展第一回出品「春苑」東京高島屋展出品
同  十一年 「春宵」春虹会展出品「時雨」五葉会展出品「序の舞」文部省美術展覧会出品「秋の粧」京都表装展出品
同  十二年 「春雪」春虹会展出品「夕べ」学習院御用画
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     「花ざかり」

 制作表を見ておりますと、一つ一つの絵について、さまざまの思い出が心に浮かんでまいります。
 明治三十三年に日本絵画協会へ出品いたしました「花ざかり」は、花嫁とその母とを描いたものでございます。その頃、私の家の本家の娘がお嫁入りすることになりました。昔のことですから、美容院などというものはなく、髪は髪結いさんに結《ゆ》ってもらいますが、お化粧は身内の者がいたします。
「つうさんにしてもろうたらよかろう」
 私の名前はつねと申しまして、つうさん、つうさんと呼ばれておりました。そこで私は、三本足というて、襟足を三筋塗り残して、襟足を細《ほっ》そりみせる花嫁のお化粧をいたしてやりました。その折りに、身近に見る花嫁の高島田や母親の髪などをスケッチしたりしましてあの「花ざかり」ができたのでございます。

     「花がたみ」

 花がたみは謡曲の「花がたみ」から取材したもので、大正四年、文展に出品したものでございます。狂女を描くのですから、本当の狂人をよく観たいものと思い、岩倉精神病院へ、二、三度見学にまいったものでした。院長に案内されて病棟を歩きますと、千差万別の狂態が見られました。夏のことで、私は薄い繻珍《しゅちん》の帯をしめておりましたが、繻珍の帯が光ったのか、一人の狂女が走りよって、
「奇麗な帯しめてはる」
 と、手を触れて見ておりました。一室には、もと、相当なお店のお内儀《かみ》さんだったという品のよい女がおりました。舞を舞うのが好きと見えて、始終、何やら舞うていると聞きましたので、私が、謡《うたい》をうたってみますと本当に舞いはじめました。男女さまざまな狂態を見まして、これは一種の天国だと思いました。挨拶、応答など、聞いておりますと、これでも狂人かしらと思われるほど常人と変わらない人も、目を見るとすぐ解りました。

     「母子」

 祇園祭りの時でしたでしょうか、ずっとずっと昔のことです。中京の大きなお店に、美しい、はん竹の簾《すだれ》がかかっておりました。その簾には、花鳥の絵が実に麗しく、彩色してありましたので、頭にはっきり残りました。
 ある年、あの簾を配して何か人物を描いてみようと思いつきました。いろいろの人物をあの記憶の簾の前に立たせて見て、もっとも心に適《かな》ったのが母子《おやこ》の姿でした。これが、昭和九年、帝展出品の「母子」になったのでございます。

     「序の舞」

 昨年(昭和十一年)、文展に出品いたしました「序の舞」は、品のよい令嬢の舞い姿を描きたいものと思って描き上げたものでございます。仕舞のもつ、古典的で優美で端然とした心持を表わしたいと思ったのでございます。そこで嫁を、京都で一番品のよい島田を結う人のところへやりまして、文金高島田を結ってもらいました。そして婚礼の時の振袖を着てもらい、いろいろな仕舞の形をさせ、スケッチいたしました。途中で、中年の令夫人にしようかとも思いましたので、早速嫁に丸髷を結ってもらい、渋い着物を着て、立ってもらったこともございました。私の謡の先生の娘さんがよく仕舞を舞われますので、いろいろな仕舞の形をしてもらって、それも、スケッチいたしました。
 いよいよ令嬢で、形は序の舞のあの
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