形と定まりましたが、扇子を持つ手一つでも、いろいろと苦心をいたします。子供から女中まで家中の女に同じように扇子をもたせて見てスケッチしてみますと、どれもどれも多少異なった形をしております。その中で一番よい手の形をとり、それを私の理想の手に描き直しました。すべて、写生の上にでて、美しく芸術化するのでございます。

     これは必ずよいものができる

 よいものを描くには、さまざまな研究をしなくてはならないことはいうまでもございませんが、一番に必要なのは「信念」というか一つの「気魄《きはく》」であろうと私は思っております。どんなものを描きます時も、いえ、描く前の構想、それを練る時から、
「これは、必ずよいものができる」
 という信念を、私は持ちます。構想がまとまり、いよいよやきずみ[#「やきずみ」に傍点]を当てて見ます。かかって見ると案外うまく行かないことがあります。さまざまの誤算が出てきます。この時に「必ずよいものができる」というあの信念をすてたらもう駄目です。己れの弱気に克って信念を強め、どうしたらよくなるか、この躓《つまず》きはどこから来たかと粘り強く研究して行きます。スラスラでき上がったものより、途中さまざまな失敗のあったものにかえって良いものができることを度々経験しております。制作にあたってこの気魄を持ちつづけ得られれば、決して後に見て悔いるような作品をつくることはございません。私がいささかでもこの気魄と克己心を持っておりますのは、母から受けついだ血であり、母の励ましのお陰であろうと思っております。

     母

 母と申せばこんなことがございました。ある年、文展の締切が近づきますのに、どうしたことか何としても構想がまとまらず、だんだんに粘《ねば》ってきてしまいました。今、思えは明治四十二年、文展第三回の時でした。気持はいらいらむしゃくしゃしてまいります。そうすると、一層、まとまらなくなります。始終、そばにある母には、私のその心持がすぐわかりました。そして言うのに、「今年は出品をやめなさい」。私は毎年出品してきたのに、今年だけ出さないのは残念と思いますので、なかなかそんな気持にはなりません。ジリジリしながらも、まだ粘っておりますと、母の曰《いわ》くには、
「文展はまあ、皆の画を並べている店みたいなものじゃないか。大空からその店を眺めるつもりになってごらん。心を大きくして大局から物を考えると、何も一回ぐらい文展に出さないでも来年うんとよいものを出せばよいじゃないか、まあ今年はやめなさいやめなさい」と。
 自分の絵に対してそれほどの自信とうぬぼれを持ってみよと教えたのでございましょう。母は度々、竹をスパッと割るように、私の心機を一変してくれることがありました。その時は、「人形つかひ」の構想が、できかかっていたのですが、それをまとめて描き上げるには、期日が迫りすぎておりましたので、その年の文展は、母の言葉通り思いとどまったのでございました。この「人形つかひ」は、翌年、前から依頼されておりました新古美術展へ出品いたしました。これはイタリーで催されたものでございました。
 母は一昨年(昭和十年)八十六の高齢で亡くなりましたが、七十九歳で脳溢血に倒れるまでは、医者にかかったことがなかったほど健康な人でした。七年間、半身不随でおりましたが、亡くなるまで頭はしっかりしておりました。毎日沢山の新聞に全部目を通しておったようでございます。
 私が今日六十三の年をして、画家としてこれだけの精進ができますのは、この母の驚くような健康体と克己、勤勉さをもらい受けたためと思っております。母が亡くなる直前、私の古い弟子の一人が、母の写真を撮《と》り、絹地に大きく引き伸ばしてくれましたので、唯今仏間に掲げてございます。これがあまりによく写されておりますので、今も生きてそこにおられるかと思うほどです。息子の松篁《しょうこう》も私も、旅に出る時は、ちょっと、
「行ってまいります」と頭を下げ、帰ると「唯今かえりました」と自然、挨拶をするようになりました。

     謡曲・鼓・長唄

 余技としましては、金剛流の謡曲を二十年近くしております。仕舞を舞うこともございます。鼓と長唄もしております。昔は地唄をいたしたものです。余技とはいえ、私はこれらのものを、遊びとは考えておりません。相寄って私の芸術を豊かなものにしてくれるような心持がいたしております。春秋には謡のおさらい会がございますが、シテになって一人で謡うことがあります。息子の松篁もしておりますので、謡った後で、
「私のはどうやった」ときいて見ますと、
「上手下手は別として、とに角、堂々とうたってはる」と申しましたので、笑ってしまいました。謡の先生も「何より心から楽しんで謡うのが本当です」と言われましたが、少しぐらい、上がり下がりがあろうと、本人はよい心持で精一杯謡っているのですから、何の心配もなく楽しいのでございます。

     八方に耳と目を働かす

 画を描くには、いつもよほど耳と目を肥やしておかなくてはならないようでございます。若い時は市村水香先生に漢学を、長尾雨山先生に漢詩の講義など聴いて勉強いたしました。時代時代の衣裳の研究に、染色祭の時などいろいろな陳列がありますから見にまいります。打掛、加賀友禅、帷子《かたびら》などが見られます。芝居へも行きますが、他の方のように気楽に楽しんで見られず、いつも肩を張らして見てきます。美しいある瞬間を、スケッチに捉えます。衣裳風俗も覚えてまいります。時には映画も、見にまいります。猛獣の写真、海底の採魚など生態がわかって、面白うございますし、美しい景色の画面と人物は、よい参考になるものでございます。今、流行の衣裳の陳列会も見逃しません。美術クラブ、公会堂、八坂クラブなどで催されますが、忙しい時は、日に三ヵ所も見て回ることがございます。
 ずっと見通しますと、今年の最新流行の色はこう、古典味のある流行色はこうと、よくわかります。また、図案の会、陶磁器の会、彫刻の会なども見て置きます。

     絵三昧の境地

 絵筆を持って五十年、今の私は筆を持たない日とてはありません。何の雑念もなくひたすら画の研究にいそしんでおります。筆を持っている時が一番楽しく、貴く、神の心にピッタリ適《かな》っているような、大丈夫の心持でございます。絵三昧に入っているのであります。画壇の揉《も》めごとも、対岸の火事を眺める気持がして、その渦中には入れません。この境地に入るまでには、人生には雨があり風があり、沈むばかりに船が傾くことがありますように、私もさまざまな艱難辛苦の時を経てまいりました。ある時は芸術的な行き詰まりに、ある時は人間的な悩みに、これほど苦しむなら生きているより死んだ方が、楽に違いないと本気で思ったことが、幾度もございました。そんな所を、幾度も通り抜けますと、人はほんとうに、強く強く生きられるものでございます。今思いますと、若い時の沢山の苦しみが積み重なり、一丸に融《と》け合って、ことごとく芸術的に浄化されて、今の境地が作り出されたのではないかと思われてなりません。
 私の心は一日中画のことでいっぱいです。夜は殊にそうでございます。私の一日のうちで、一番貴い時は、眠りに入る前の四、五十分の時です。若い時から私は床に入ると、新聞か雑誌をちょっと見なくては眠れない習慣があります。しばらく、読んでいると、眠気がさして来る。そこでスィッチをひねります。体を伸ばして静かに手を胸に組んで目をつぶります。そのまま眠ってしまうかというとそうではなく、しばらく静かにしておりますと、閉じた目の前に美しいさまざまな色彩が浮かぶ、昔見た美しいとじ糸のついた絵日傘が浮かぶ、いつか見た絵巻物が鮮やかに展開する。そうしていつかしら私はぐっすり眠ってしまいます。また次の夜も同じように見ます。こうして一週間もたつと、制作のヒントが具体的にこの夢現《ゆめうつつ》の中に得られるのが度々でございます。
「今夜は早く寝ましょう」と人にもいって、平常の習慣で、画室の戸締まりをしに入りますと、昼間描いた絵がふと目に入ります。つい筆をとって一筆《ひとふで》加える。そばの参考の本をめくって見る、また筆を加える。気がついた時は夜は深く更けてしまっております。
 今の私は、少しでもよい画を描きたい、よいものを遺してゆきたいと思うほか何も考えておりません。禅の言葉に、「火中の蓮華《れんげ》」ということがあります。その深い意味は知りませんが私はこう思っております。火の燃えさかる中にカッと開いている蓮華の状《さま》は、如何にも壮《さか》んで勇猛心に燃えているように思われてなりません。私は、近来殊にこの勇猛心を持っております。齢《よわい》は傾きますが、私の画に対する勇猛心は、日毎に、強く燃えさかってゆくようでございます。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「婦人の友」
   1937(昭和12)年10、11月号
※底本で副題となっている「皇太后陛下御下命画に二十一年間の精進をこめて上納」は、初出誌においては最初の項目の見出しとなっています。
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング