いう、しっかり者の母の味方で、当時、二、三人よりなかった女の画学生になるところまで来てしまいました。

     府立画学校に入る

 十三、四の頃でした。今の京都ホテルのある場所に、京都府立画学校が設けられてありましたので、早速そこに入りました。初めは、花鳥を習いました。唐紙《とうし》にお手本を写し描き、運筆の練習をいたしました。時には写生をしたり、古画の模写等をしました。私は幼い時から、母から江戸絵の美人画を与えられたせいか、人物画が好きでした。けれど画学校では人物画は一番難しいものとして、最後に教えることになっておりました。師の鈴木松年先生が私の心持を知って、
「それほど人物が好きなら学校の帰りに私の処にお寄りなさい。特に人物画を教えて上げましょう」
 といって下さったので、大喜びで松年塾へ通いました。
 暫くして、松年先生が学校を退かれたので、私も学校を止《や》め、松年塾で学ぶようになりました。松園という雅号は、その頃、松年先生からいただいたものです。その後、幸野楳嶺先生に師事し、先生の歿後、竹内栖鳳先生を師といたしました。

     一山のスケッチ帳

 人物画は、江戸絵、錦絵のあった、東京方面にはよいお手本もありましたが、京都には花鳥の画家が多く、ほとんど美人画を見る機会がありませんでした。ですから、鏡に自分の姿を写して写生したり、いろいろの人をスケッチしたりして、ほとんど自分で勉強いたしました。いつも袂に矢立と半紙を入れて歩きました。祇園祭りは、他の人と異なる意味で、私には特別に楽しみに待たれました。と申しますのは、中京辺りの大|店《だな》では、どこの店でも家宝とする立派な屏風を、祇園祭りの間中店に飾ります。代々つづいている大きな老舗《しにせ》では、誠に立派な屏風を持っております。「お屏風拝見」といえば、どこの店でも快よく上へ上げて見せてくれる習慣《ならわし》がありまして、お客が多いほど自慢となるのです。私も、道を歩いていて、よい絵の屏風があると、「お屏風拝見」といって上がり込みます。
「お二階の方にもありますからどうぞ、お上がりやしてみておくれやす」と、いう調子で、快よく見せてくれますので、これ幸いと拝見し、これは写して置きたいと思うと、
「ちょっと、写さして頂きます」といって、半日も知らぬ家に坐り込んで、写していることもありました。
 当時は今の
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