います。家業柄、私の生まれ育ちましたのは、京都でもっとも繁華な四条御幸町でありました。一人の姉と共に、母の手一つで育てられたのでございます。
絵解きの手紙
口もろくに回らぬ時から絵が好きだったらしく、こんな笑い話があります。四つぐらいの時でした。お祭りか何かで、親戚の家へ一人で招ばれてゆきました。
その頃、木版画や錦絵を並べている店を私共は「絵やはん」と呼んでいました。「絵やはん」の前を通るとこれが目に止まり、絵がほしくてたまらなくなりました。しかし、幼いながら親戚の人に買ってというのは恥ずかしく、ようよう我慢していますと、丁度そこへ私の家の丁稚《でっち》が来ました。そこで紙に円《まる》をかき、真中に四角をかき、その間に浪の模様をかきました。これを六つ並べて、丁稚にこの絵の通りのものを、家から持って来てくれと頼みました。当時の文久銭は浪の模様がついておりまして、その絵は、文久銭六つで買えたものだったのです。口の回らぬところも、絵筆の方は回ったようでありまして、この意味が大人に通じ、皆に笑われたものでした。
帳場の陰で画ばかり描いている
七つで小学校に上がりました。開智小学校という小学校でした。遊放の時間にも、私は多く、室の中で石板《せきばん》に絵を描いていたものです。友達から、「私の石板にも絵をかいておいて頂戴」と頼まれたのを覚えております。
学校から帰ると、母から半紙をもらい、帳場に坐って、いつも絵を描いていました。母が買ってくれた江戸絵の美しい木版画を丹念に写したりしたものです。賑やかな四条通りの店ですから、お茶を買いに来るお客さんは引きも切りません。
「あすこの娘さんはよほど絵が好きと見えて、いつも絵ばかり描いてはる」と評判になっていたようです。
お茶を買いに来るお客さんの中には、いろいろの人がありました。頭が尉《じょう》のような白髪のお爺さんが、私の絵の好きなことを知って、度々極彩色の桜の絵を見せてくれました。この老人は、桜戸玉緒といって桜花の研究者だったのです。また文人画の修業に京都に来ているという画学生から、竹や蘭の絵をもらったこともありました。
こうして私の絵好きは、親類知人の「女の子は、お針や茶の湯を習わせるものだ、女の子に絵など習わしてどないする」という非難もよそに、「本人の好きなことを、伸ばしてやりたい」と
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