清浄な気が一日、保たれるのでございます。
その上、絵の具は、使わぬ時はピタリと蓋《ふた》を閉じておきますので、絵の具の中には、塵《ちり》一筋も入りません。私は、他のことは杜漏《ずろう》ですが、画に関する限り、誠にキチンと骨身を惜しまずいたします。絵の具が汚れていたり、辺りを取り散らかしていては、決して清い画が描けるものではないと存じております。こうして、精進をつづけて、雪の図ができ上がりました時、三室戸様が御上洛なされ「なかなかの力作だ、是非、六月の行啓に間に合わせ、御所で上納できるよう一層励んで下さい」といわれました。
遂に、六月二十日、「雪月花」三幅を完成いたしました。藤原時代の御殿の風俗を雪月花の三幅に描き出したものでございます。雪は、清少納言に倣《なぞ》らえたものと思って下さってもよいでしょう。
二十四日、三室戸様に伴われ、皇太后様御滞在中の御所へ、上納の御挨拶を言上に上がりました。翌日、二十五日陛下御誕辰の佳《よ》き日、三室戸様が御拝謁の折りは、丁度、画を叡覧遊ばされていらせられ、一層御満足の御様子に拝されたと漏れ承りました。
「今年こそは、果たさなくては相すまぬ」と、夢寐《むび》にも、思いつづけて来たとはいえ、御恩命を拝してから二十一年の歳月を経たことは、誠に畏れ多く相すまぬ次第ではございますが、はからずも、その間、二十年の研究をこの絵に盛ることができましたので、私といたしましては、相すまぬながら、長く宮中にお残しいただく絵として、心残りなく描かせていただいたという心持がしております。
生いたち
どうして私が生涯を絵筆を持って立つようになりましたものか、ただ、私は小さい時から絵が好きで好きでたまりませんでした。この血は母方から伝わったものに違いありません。母も絵心のある人でした。母方の祖父も絵が好きでありました。その兄弟に柳枝と号して俳諧をよくしたものもおりました。父は、私が生まれた年に亡くなりました。
家業は父から受け継いだ茶舗を、母が営んでおりました。祖父は、大阪町奉行であった大塩後素の甥に当たりまして、京都高倉の御召呉服商長野商店の支配人を永らくいたしておりました。祖父は、一時、主家の血統が絶えようとした時、縁つづきの人をさがし出し、この人を守り立てて主家再興に尽くしたというような、誠実と、精励をそなえた人であったそうでござ
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