美人を、二尺五寸に五尺の大きさに描いたものでした。これが当時我が国に御来遊中であった英国の皇子コンノート殿下のお目に止まり、お買上げの栄に浴しました。その時、京都の日の出新聞に出た記事が、最近の紙上に再録されておりましたので、面白く思い、切り抜いておきました。何でも十五歳の少女の画が一等褒状、その上英国皇子お買上げの栄に浴したと大分もてはやしてありました。今ちょっと見当たらず、お目にかけることはできませんが。
 かくして、私の絵筆の生涯の幕が開かれたのでございますが、別に一生絵で立とうと考えてはおりませんでした。けれど私の画業は、次のように進んでおりました。
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明治二十四年 東京美術協会「和美人」一等褒状
同年     全国絵画共進会「美人観月」一等褒状
同 二十五年 京都春期絵画展覧会「美人納涼」一等褒状
同年     米国シカゴ博出品(農商務省下命画)「四季美人」二等賞
同 二十六年 東京美術協会「美人合奏」三等銅牌
同 二十七年 東京美術協会「美人巻簾」二等褒状
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 本当に、絵で一生立とうと考えたのはこの後で、二十歳か、二十一歳の時でありました。それからは、花が咲こうと、月が出ようと、絵のことばかり考えておりました。
 母は一人で店を経営し、夜は遅くまで裁縫などしながら、私の画業を励ましてくれました。

     烈しい勉強

 それからの私は、心は男のように構えておりましたが、悲しいことに、形は女の姿をしております。そのために勉強の上にも、さまざまな困難がありました。私は体は小さくても、生来母譲りの健康体を持っておりましたから、烈《はげ》しい勉強にはいくらも堪えられました。けれど写生などに行きたくとも、若い女の身で、そうやたらな所へ一人で行くことはできません。仕方がないので、男学生十二、三人の写生旅行に加わって行きました。朝は、暗いうちに起きて、お弁当を腰につけ、脚絆をつけて出かけます。日に、八里、九里も男の足について歩きました。歩いては写生し、写生しては歩くのです。ある時は吉野の山を塔の峰の方まで、三日間、描いては歩く旅行をしました。家に帰ると流石に足に実《み》が入って、大根のように太くなり、立つ時は掛声でもかけないと立てないほどになったことがありました。
 お陰で今も足はたいへん丈夫でございます。四、五年前、
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