いるのを観ているうちに、
(事によると、彼らだけに通じる将棋の約束があるのではなかろうか?)
 とさえ思われるのであった。どうも、そのような気がしてならない。
 とすると、狂人の棋法のほうがすぐれているのではなかろうか? と思えるのであった。定まった約束の下に駒を進めるよりも、自由奔放に、自分の思ったところへ駒を飛ばし、王が取られようが、味方の軍が全滅しようが、何ら頓着なしに駒を戦わし、一局に朝から晩まで費やし、自由の作戦で敵の駒を取ったり取り返されたりする……彼らにとっては、これほど面白い競技はないのに違いない。
 もし、将棋に「駒の道」という約束がなかったら、彼らは決して狂人ではなく、普通の人間である訳である。
 彼らは駒をパチパチあらぬ処へ打ちながら、他の狂人を眺めて、次のようなことを話しあっている。
「あいつらは気違いだ、あんな奴らを相手にしてはいかん」
 狂人は、決して自分を狂人だとは思わないそうである。そうして、自分以外の者はすべて狂人に見えるということである。

 狂人の顔は能面に近い。
 狂人は表情にとぼしい故ででもあろうか、その顔は能面を見ている感じである。
 嬉しい時も、かなしい時も、怒ったときも大して表情は変らないようである。
 想うに、「感情」の自由を失った彼らの身内に、嬉しい、哀しい、憤ろしい――ということもあまりないのではなかろうか。
 怒った時には動作でそれを示しても、表情でそれを示すのは稀である。そういうところが狂人の特徴であることに気づいたわたくしは、「花がたみ」における照日前の顔を能面から持って来たのである。
 このことは「草紙洗小町」にも用いたのであるが、狂人の顔を描くのと能面を写すのとあまり変らないようであった。
 もともと「花がたみ」の能には小面、孫次郎を使うので、観世流では若女、宝生流では増という面を使うのであるが、わたくしは、以上の考えから「増阿弥」の十寸神《ますがみ》という面を写生し、その写生面を生きた人間――つまり照日前の顔に描いてみた。
 能面と狂者の顔の類似点がうまく合致して、この方法は、わたくしの意図どおりの狂人の顔が出来たのである。

 狂人の眸には不思議な光があって、その視点がいつも空虚《うつろ》に向けられているということが特徴であるようだが、その視線は、やはり、普通の人と同様に、物を言う相手に向けられてい
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