者にとってははるかにむつかしさ[#「むつかしさ」に傍点]を感じるのである。
お夏のは、全くの狂乱であり、照日前のは、君の宣旨によって「狂人を装う」狂乱の姿なのである。そこに、お夏の狂態と照日前の狂態にへだたりが見えるのでもあろう。
狂人を見るのでしたら岩倉村へゆけばよいでしょう。と、ある人がわたくしに教えてくれた。
京都の北の山奥岩倉村にある狂人病院は、関西のこの種の病院では一流である。狂人病院の一流というのは妙な言い方であるが、とにかく、岩倉の病院といえば有名なもので、東京では松沢病院、京都では岩倉病院とならび称される病院なのである。
岩倉へゆけば、狂人が見られるには違いないが、照日前のモデルになるようなお誂えむきの美狂人がいるかどうか――と案じていると、
「某家の令嬢で、あすこに静養している美しい方がモデルにふさわしいと思うが」
と、教えてくれる人もあったので、わたくしは幾日かを狂人相手に暮すべく、ある日岩倉村へ出かけて行った。
狂人というものは、静かに坐っていたり、何かこつこつやっている姿をみていると、
(これが狂人か?)[#「)」は底本では「」」]
と思うくらい、常人と変ったところを感じない。
外観上――五体のどこにも、常人と変ったところがないのであるから、ちょっと見には狂人であるのか常人であるのか区別がつきにくいのであるが、近よって、よく見ると、そのやっている手先が普通と異うので、
(やはり変なのかな?)
と、思うのである。
碁の好きな狂人同志、将棋の好きな狂人同志が、それを戦っている。その姿を離れたところで眺めていると、実に堂々たるものである。天晴れの棋士ぶりだが、そばに寄って覗き込んでみると、王将が斜めに飛んで敵の飛車を奪ったり、桂馬が敵駒を三つも四つも越えて敵地深く飛び入って、敵の王将を殺して平気である。
王将が殺されても、彼らの将棋は終らないのである。見ていると、実に無軌道な約束を破った将棋なのであるが、彼らには、その将棋に泉の如き感興があとからあとからと湧くのを覚えるらしい。朝から晩――いや、そのあくる日もまたあくる日も、何やらわけのわからない駒を入り乱れさして、それでいて飽くところを知らないのである。
如何にも面白そうであった。最初、
(無茶苦茶にやっているのであろう)
と、思ったが、毎日そのようなことをくり返して
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