むを得ないことなのです。
 院長はシャツの袖を高々とまくりあげ、にゅっと伸ばした腕に波をうたせながらやって来て、
『麻酔はいいかね?』
 その声を聞くと、私は神経がぐっと引きしまりました。急に病院気分になって緊張して答えました。
『まだです』
『早くしたまえ』
 私は病人の上にかがみこんで、
『聞えますか』
 と訊ねると、女は二度瞬きをしました。『聞える』ということを眼付で答えているのです。
『耳の中で何かブンブンいっているでしょう。どんな音がしますか』
『鐘……』
 微かにつぶやきながら、一、二度|痙縮《けいしゅく》しました。そして片一方の腕をだらりと卓子《テーブル》に垂れ、呼吸はだんだん平らになって、顔色はしだいに蒼ざめ、鼻の側《わき》に青筋が現われて来ました。
 私はまた、じっと身をかがめました。女のすうすういう呼吸がクロロフォム臭くなって来て、もうすっかり麻酔におちたのです。
『よろしゅうございます』
 と私は院長に報告しました。
 が、やがて院長のメスが白い皮膚の上を颯《さっ》と走って、そこに赤い一線が滲んだとき、私はまた不安に襲われました。彼女の肉が切られたり、摘《つま》ま
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