麻酔剤
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麻酔《ねむ》らせて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それ以来|間断《ひっきり》なしに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けち[#「けち」に傍点]
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「わたしなんか、麻酔剤をかけなければならぬような手術をうけるとしたら、知らないドクトルの手にはかかりたくありませんね」
 と美くしいマダム・シャリニがいいだした。
「そんなときは、やっぱり恋人の手で麻酔《ねむ》らせて貰わなければね」
 老ドクトルは、自分の職業のことが話題にのぼったので、遠慮して黙りこんでいたが、そのとき初めて首をふって、
「それは大変な考え違いですよ、マダム。そんなときは、滅多に恋人なんかの手にかかるもんじゃありません」
「何故ですの? 恋しい人が傍《そば》についていてくれたら、どんなに心強いかしれませんわ。そうした生命にもかかろうというときは、思念《おもい》をすっかりその人の上に集めますと、精神の脱漏を防ぐことが出来ますからね。恋人の眼でじっと見つめられながら麻酔《ねむり》に陥《お》ちてゆくなんて、どんなにいい気持でしょう。それから、意識にかえるときの嬉しい心持を思っても御覧なさい。『覚醒』の嬉しさをね……」
「ところが麻酔の醒め際なんか、そんな詩的なものじゃありません」ドクトルは笑いながら、「麻酔からの醒め際は厭な気持のするもので、そのときの患者の顔といったら、見られたもんじゃありません。どんな美人だって恋人から愛想をつかされるにきまっています」
 といったが、暫く押黙ったあとでつけ加えた。
「そればかりでなく、迂闊に恋人なんかの手にかかると、頗《すこぶ》る危険なのは、覚醒しないでそれっきりになることがあります」
 これには皆が反対説を唱えだしたので、ドクトルも後へ退《ひ》けなくなってしまった。
「そんなら、私の説を証拠立てるために、皆さんにごく旧いお話を一つお聴きに入れよう。実は、私がその悲劇の主人公なんですがね、今はお話したって誰に迷惑のかかる気づかいもありません。というのは、関係者がみな死んでしもうて、生き残っているのは私独りなのです。但し関係者の姓名《なまえ》は秘しておきますから、皆さんが墓場をお探しになっても無駄ですよ。
 私は今は七十の声がかかって、御覧のとおりの老ぼれなんだが、その時分は二十四になったばかりで、若い盛りでした。
 私は病院の助手をやっていたが、恰度その頃、或る婦人と恋に陥《お》ちました。私としてはこれが後にも前《さき》にもたった一度の、そして熱烈な恋でした。
 彼女と逢引をするためなら、どんな愚劣な真似でもやりかねなかったのです。そして彼女の平和のためや、世間の誹謗を防ぐためなら、どんな大きな犠牲をも払っただろうし、また、万一われわれの恋が暴露《ばれ》かけて、彼女に疑いがかかるような場合には、私は直ちに自殺をしようという意気込でした。われわれは何方《どっち》も若かったのです。女は、その時分、二十も年上の男と無理強いに結婚をさせられていました。それに、老人の口からこう申しちゃお恥かしい次第だが、われわれはお互いに真から惚れ合った同士でした。
 数ヶ月間はこの上もなく幸福でした。慎ましくしていたので、誰一人感づいた者もなかったけれど、或る日、良人《おっと》なる人から私の許《ところ》へ急状があって、細君が大病だから来て診てくれということです。私はすぐにその家へ飛んでゆきました。
 彼女は床づいていて、真蒼な不安な顔をして、眼のふちが黯《くろ》ずんで鼻が尖《とん》がり、唇は乾ききって、髪はぐったりと崩れていました。すべての様子が、病院でしばしば見る重病患者にそっくりでした。
 前の晩、突然、腹部に激烈な疼痛が起ったので、家人が寝台に寝かしたそうですが、それ以来|間断《ひっきり》なしに呻いていて、ときどき吃逆《しゃっくり》がまじって、人が手でものべると、触られるのを嫌がって、一生懸命に押しのける身振りをする。そして決して触ってくれるなということを、眼付で歎願しているのです。
 診ると、一時間も、いや一分間も猶予の出来ない状態なので、早速院長を招んだところ、院長の診断もやはり、すぐその場で手術をしなければ可《い》けないというのです。
 サアこうなると、知らない患者のために落ちついて手術の準備をするのと、最愛の女《ひと》のために怖々《こわごわ》その準備をするのとは、心持に於て非常な相違があります。
 隣りの室《へや》で人々がせっせと手術の仕度をやっている間に、哀れな恋女《こいびと》は、私を傍《そば》へ呼んで、そっと囁きました。
『わたし平気よ。どうぞ心配しないで
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