……貴方の御手で麻酔をかけてね』
私は手真似で反対したが、彼女はどうしても肯《き》きません。
『きっとね。貴方に眠らせて頂くわ』
私は『可《い》けない』と云おうとしたけれど、それを云っている隙《ひま》も、勇気もありませんでした。そのうちに、もう人々がやって来て、彼女を隣室へ運んでゆきました。
私の苦難はこれから始まるのです。
院長や、医員や、看護婦たちが容易ならぬ気勢《けはい》であちこちと立ち廻っている間に、私はクロロフォムの壜と、マスクの用意をしました。
女が麻酔剤を数滴吸入しかけたとき、何だか厭がる風だったが、ふと私の顔を見るとにっこり笑っておとなしく、私のするがままに任せました。しかし、そのときは、まだ麻酔が不完全だったのです。というのは、私が感動のあまり度を失って、マスクをぴったりと口へ当てなかったために、その隙間から空気が入りすぎて、クロロフォムの吸入量が少なかったからです。
なお、私は突発し得るさまざまな危険を考えていました。たびたび見聞《みきき》した麻酔死の場合なども予想しました。その際、私の眼が常のごとく鋭敏でなく、手先が不確《ふたしか》であったのも、実に已むを得ないことなのです。
院長はシャツの袖を高々とまくりあげ、にゅっと伸ばした腕に波をうたせながらやって来て、
『麻酔はいいかね?』
その声を聞くと、私は神経がぐっと引きしまりました。急に病院気分になって緊張して答えました。
『まだです』
『早くしたまえ』
私は病人の上にかがみこんで、
『聞えますか』
と訊ねると、女は二度瞬きをしました。『聞える』ということを眼付で答えているのです。
『耳の中で何かブンブンいっているでしょう。どんな音がしますか』
『鐘……』
微かにつぶやきながら、一、二度|痙縮《けいしゅく》しました。そして片一方の腕をだらりと卓子《テーブル》に垂れ、呼吸はだんだん平らになって、顔色はしだいに蒼ざめ、鼻の側《わき》に青筋が現われて来ました。
私はまた、じっと身をかがめました。女のすうすういう呼吸がクロロフォム臭くなって来て、もうすっかり麻酔におちたのです。
『よろしゅうございます』
と私は院長に報告しました。
が、やがて院長のメスが白い皮膚の上を颯《さっ》と走って、そこに赤い一線が滲んだとき、私はまた不安に襲われました。彼女の肉が切られたり、摘《つま》まれたりするのを見ると、まるで自分の身体を切りさいなまれているような気がするのです。私は機械的に手をのべて女の顔に触ってみました。と、彼女は突然、本能的に防禦でもするように脚を折りまげて、うーんと一つ呻きました。
院長は立ちすくんで、
『おい、麻酔が十分でないよ』
といいます。私は大急ぎでマスクへまた数滴のクロロフォムを垂らしました。
院長はもう一度患者の上に屈みました。が、彼女は又もや呻いて、今度は何かわけのわからぬことを口走りました。
私は早くこの手術を終らせてしまいたいと思って、どんなにやきもきしたことでしょう。一刻も早く覚醒する彼女を見たい、恐ろしい夢魔を追い払ってしまいたいと、そればっかり念じていました。彼女はもう身動きはしないがやはり呻いて、何かぶつぶついっていた、と思うと突然に男の名――しかも『ジャン』という私の名前を判然《はっきり》呼びかけたのです。
私はぎょっとしました。しかし彼女は夢でも見ているらしく、つづいてこんなことをいいました。
『心配しないで、ね……わたし平気よ……』
サア今度は、此方《こっち》が平気でいられない。
彼女が覚醒しないで、そのまま私の腕に死んでゆくかも知れないという心配よりも、譫語《うわごと》の中で両人《ふたり》の秘密をいい出しはせぬかということが、むしょうに恐ろしくなって来ました。
やがて、彼女はほんとうに危っかしい譫語《うわごと》をはじめました。私ははらはらして、
『院長、麻酔が十分でないようです』
『何かしゃべったって……構わんじゃないか……もう暴れアしないから大丈夫だよ』
そのとき、女ははっきりと声を張りあげて、
『わたし平気よ……貴方がついていて……眠らせて下さるんですもの……』
と一語一語を明瞭にいってのけたのです。私は更にクロロフォムを四滴、五滴とつづけざまにマスクへ垂らして、それを女の顔へひしと押し当てました。彼女のしどろもどろな声が、私の手でしっかと抑えつけている布《きれ》へ打《ぶっ》つかって来ます。
『わたし眠るのよ……あら、鐘が聞えるわ……今に癒《なお》ったら、また両人《ふたり》で、散歩をしましょうね……』
私はもう夢中でした。隣室で、多分戸口に耳を押しつけていた彼女の良人《おっと》がそれを聞いただろうし、他の人々も感づいたにちがいないと思いました。彼女は不断ごく慎ましくて、幸いに只
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