の一度もそんな浮き名を立てられたことがなかったけれど、今度はけち[#「けち」に傍点]がつくだろうと思って、慄然《ぞっ》としました。
何にしても、もっとよく麻酔《ねむ》らせて、彼女を黙らせなければならぬので、私は矢つぎ早にクロロフォムを垂らしました。マスクがだらだらに濡れて、指先にしっとりと重さを感ずるぐらいでした。
『会いましょうね……晩に……二人っきりよ……そしたら、また抱擁してね……』
まだやっています。私は頭がぐらぐらっとしました。今度は何を云いだすか知れたもんじゃない――そう考えるといよいよ堪《たま》らなくなって、また一滴一滴と薬液を垂らしました。自分でも夢中で何をやっているかわかりませんでした。
ふと気がつくと、壜が空っぽになっています。サア大変、麻酔剤の量が多すぎた。愕然《ぎょっ》としてマスクを投げだし、あわてて女の眼瞼《まぶた》をあけると瞳孔が散大して、虹彩が殆んどなくなっているではありませんか。私は『待った!』と叫ぼうとしたが、言葉が咽喉《のど》に塞《つか》えて出て来ません。
その瞬間に、院長が、簡単だけれど心配そうな声で、
『はてナ、血圧が馬鹿に低くなったぞ』
と、いきなり私を押し除《の》けて、患者の顔へ身をかがめると、
『呼吸が止まってるじゃないか……酸素吸入か……エーテルを……早く早く……』
けれども、もう手遅れでした。可哀そうに、彼女はぐったりと仰《あお》のけに首を垂れ、その碧眼《あおめ》は、眼瞼《まぶた》をあげられたまま、きょとんと私の方を見ています。
われわれは有らゆる手段をつくしたけれど、何の効《かい》もありませんでした。麻酔死――あの恐ろしい麻酔死というやつが、彼女を私の手から永久に奪ってしまったのです」
こう語り終って、ドクトルは五分間もじっと黙想に沈んでいたが、やがて次のようにつけ加えた。
「こうした事故はしばしば起るもので、誰だって、絶対に麻酔剤の危険がないということは云えるものじゃありません。が、あの場合、私が彼女の恋人でなくて、冷静に仕事の出来る立場にあったなら、そして、彼女の生命を自分の手に握っているという重大な責任と、彼女を破滅させる恐ろしい秘密を譫語《うわごと》に聞くという、二重の苦悶で頭が惑乱することがなかったならば、私は決して彼女を死なせはしなかったでしょう」
それっきりドクトルは黙りこんだ。
冷たい秋風が、濡れた窓硝子をはたはたと鳴らしていた。そして、その秋風に誘われて来たような一脈の哀愁が、しんみりと室《へや》じゅうに沁みわたった。
マダム・シャリニは肱掛椅子の背にぐったりと頸《うなじ》を凭《よ》せて、夢見る女《ひと》のように、ぼんやり空間を見つめていた。
人々はその晩に限って、常よりも早く散り散りに帰って行った。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
初出:「新青年」
1923(大正12)年8月増刊号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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