麻酔剤
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麻酔《ねむ》らせて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それ以来|間断《ひっきり》なしに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けち[#「けち」に傍点]
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「わたしなんか、麻酔剤をかけなければならぬような手術をうけるとしたら、知らないドクトルの手にはかかりたくありませんね」
 と美くしいマダム・シャリニがいいだした。
「そんなときは、やっぱり恋人の手で麻酔《ねむ》らせて貰わなければね」
 老ドクトルは、自分の職業のことが話題にのぼったので、遠慮して黙りこんでいたが、そのとき初めて首をふって、
「それは大変な考え違いですよ、マダム。そんなときは、滅多に恋人なんかの手にかかるもんじゃありません」
「何故ですの? 恋しい人が傍《そば》についていてくれたら、どんなに心強いかしれませんわ。そうした生命にもかかろうというときは、思念《おもい》をすっかりその人の上に集めますと、精神の脱漏を防ぐことが出来ますからね。恋人の眼でじっと見つめられながら麻酔《ねむり》に陥《お》ちてゆくなんて、どんなにいい気持でしょう。それから、意識にかえるときの嬉しい心持を思っても御覧なさい。『覚醒』の嬉しさをね……」
「ところが麻酔の醒め際なんか、そんな詩的なものじゃありません」ドクトルは笑いながら、「麻酔からの醒め際は厭な気持のするもので、そのときの患者の顔といったら、見られたもんじゃありません。どんな美人だって恋人から愛想をつかされるにきまっています」
 といったが、暫く押黙ったあとでつけ加えた。
「そればかりでなく、迂闊に恋人なんかの手にかかると、頗《すこぶ》る危険なのは、覚醒しないでそれっきりになることがあります」
 これには皆が反対説を唱えだしたので、ドクトルも後へ退《ひ》けなくなってしまった。
「そんなら、私の説を証拠立てるために、皆さんにごく旧いお話を一つお聴きに入れよう。実は、私がその悲劇の主人公なんですがね、今はお話したって誰に迷惑のかかる気づかいもありません。というのは、関係者がみな死んでしもうて、生き残っているのは私独りなのです。但し関係者の姓名《なまえ》は秘しておきますから、皆さんが墓場をお探しになって
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