も無駄ですよ。
 私は今は七十の声がかかって、御覧のとおりの老ぼれなんだが、その時分は二十四になったばかりで、若い盛りでした。
 私は病院の助手をやっていたが、恰度その頃、或る婦人と恋に陥《お》ちました。私としてはこれが後にも前《さき》にもたった一度の、そして熱烈な恋でした。
 彼女と逢引をするためなら、どんな愚劣な真似でもやりかねなかったのです。そして彼女の平和のためや、世間の誹謗を防ぐためなら、どんな大きな犠牲をも払っただろうし、また、万一われわれの恋が暴露《ばれ》かけて、彼女に疑いがかかるような場合には、私は直ちに自殺をしようという意気込でした。われわれは何方《どっち》も若かったのです。女は、その時分、二十も年上の男と無理強いに結婚をさせられていました。それに、老人の口からこう申しちゃお恥かしい次第だが、われわれはお互いに真から惚れ合った同士でした。
 数ヶ月間はこの上もなく幸福でした。慎ましくしていたので、誰一人感づいた者もなかったけれど、或る日、良人《おっと》なる人から私の許《ところ》へ急状があって、細君が大病だから来て診てくれということです。私はすぐにその家へ飛んでゆきました。
 彼女は床づいていて、真蒼な不安な顔をして、眼のふちが黯《くろ》ずんで鼻が尖《とん》がり、唇は乾ききって、髪はぐったりと崩れていました。すべての様子が、病院でしばしば見る重病患者にそっくりでした。
 前の晩、突然、腹部に激烈な疼痛が起ったので、家人が寝台に寝かしたそうですが、それ以来|間断《ひっきり》なしに呻いていて、ときどき吃逆《しゃっくり》がまじって、人が手でものべると、触られるのを嫌がって、一生懸命に押しのける身振りをする。そして決して触ってくれるなということを、眼付で歎願しているのです。
 診ると、一時間も、いや一分間も猶予の出来ない状態なので、早速院長を招んだところ、院長の診断もやはり、すぐその場で手術をしなければ可《い》けないというのです。
 サアこうなると、知らない患者のために落ちついて手術の準備をするのと、最愛の女《ひと》のために怖々《こわごわ》その準備をするのとは、心持に於て非常な相違があります。
 隣りの室《へや》で人々がせっせと手術の仕度をやっている間に、哀れな恋女《こいびと》は、私を傍《そば》へ呼んで、そっと囁きました。
『わたし平気よ。どうぞ心配しないで
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