を見知るようになった。が、座方の連中は、高い料金をだして毎晩根気よく同じ曲乗りを見物にやってくる彼の道楽がどうしてもわかりかねた。
ところがある晩、曲芸師は常よりも早くその曲乗りを終ったが、ふと廊下で彼にでっくわした。言葉をかわすのに紹介の必要などはなかった。
「お顔はとうから見おぼえています」曲芸師が挨拶した。「あなたは入りびたりですね。毎晩いらっしゃいますね」
すると彼はびっくりして、
「僕はきみの曲乗りに非常な興味をもっているんだが、毎晩来るっていうことを誰に聞いたんだね?」
曲芸師はにっこり笑って、
「誰に聞いたのでもありません。自分の眼で見ているのです」
「それは不思議だ。あんなに高い所から……あの危険な芸をやっていながら……きみは観客《けんぶつ》の顔を見わける余裕があるかね」
「そんな余裕があるもんですか。わたしは下の方の観客席なんかてんで見やしません。しょっちゅう動いたりしゃべったりしている観客に少しでも気を散らしたら、非常な危険ですからね。だがわたしどもの職業《しょうばい》では、技芸《わざ》や、理屈や、熟練のほかに、もっともっと大切なことがあります……いわばトリッ
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