クのようなもんですがね……」
「えっ、トリックがあるかね」
 彼はまたびっくりした。
「誤解しないでください。トリックといっても、わたしのはごまかしじゃありません。わたしのトリックは、観客のまったく気づかないことで、しかもそれが一等呼吸のむずかしいところです。いってみると、こうなんです……実際、わたしどもは頭をからっぽにしてただひとつの考えしか持たないということはなかなかむずかしいことで、つまりひとつのことに精神を集中するというそのことが困難なのです。しかしはなれわざをやるときはどのみち完全な精神集中が必要ですから、わたしは何かしら観客席に目標をきめて、そればかりをじっと見つめて、決してほかへ気を散らさぬようにします。そしてその目標の上に視線をすえた瞬間から、他のあらゆるものを忘れてしまうのです。
 鞍にのぼって両手をハンドルにかけると、もう何も考えていません。バランスも、方向も考えません。わたしは自分の筋肉を頼みます。それは鋼鉄のようにたしかです。たったひとつあぶないのは眼ですが、いまもいったように、いったん何かを見すえるともう大丈夫です。
 ところで、わたしは初日の晩に曲乗りをはじ
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