クのようなもんですがね……」
「えっ、トリックがあるかね」
彼はまたびっくりした。
「誤解しないでください。トリックといっても、わたしのはごまかしじゃありません。わたしのトリックは、観客のまったく気づかないことで、しかもそれが一等呼吸のむずかしいところです。いってみると、こうなんです……実際、わたしどもは頭をからっぽにしてただひとつの考えしか持たないということはなかなかむずかしいことで、つまりひとつのことに精神を集中するというそのことが困難なのです。しかしはなれわざをやるときはどのみち完全な精神集中が必要ですから、わたしは何かしら観客席に目標をきめて、そればかりをじっと見つめて、決してほかへ気を散らさぬようにします。そしてその目標の上に視線をすえた瞬間から、他のあらゆるものを忘れてしまうのです。
鞍にのぼって両手をハンドルにかけると、もう何も考えていません。バランスも、方向も考えません。わたしは自分の筋肉を頼みます。それは鋼鉄のようにたしかです。たったひとつあぶないのは眼ですが、いまもいったように、いったん何かを見すえるともう大丈夫です。
ところで、わたしは初日の晩に曲乗りをはじめるとき、偶然にもあなたの座席へ視線がおちたので、じっとあなたのお姿を見つめていました。あなたはご自分で気づかずに、わたしの眼をとらえたのです。
こうしてあなたはわたしの目標になりました。二日目の晩にもやはり同じ座席にいるあなたに眼をつけました。それからというものは、軌道のてっぺんに立つと、眼が本能的にあなたの方へ向かいます。つまりあなたはわたしを助けていらっしゃるので、いまじゃ、あなたはわたしの曲乗りに欠くことのできないだいじな目標になっています。これで、毎晩お見えになることをわたしが知っているわけがおわかりになったでしょう」
その次の晩も、わが精神異常者は例の座席にすわっていた。観客《けんぶつ》は鋭い期待をもって、例のごとくざわざわと動いたりしゃべったりしていた。
と、とつぜん、水をうったようにしいん[#「しいん」に傍点]としずまりかえった。観客がいきを殺している深い沈黙なのである。
曲芸師は、自転車に乗って、二人の助手にたすけられながら、出発の合図を待っているのだ。彼はやがて完全にバランスをとって両手にハンドルをにぎり、くびをしゃんとあげて正面に視線をつけた。
「ホオッ!
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