神速な、そして溌剌たる感激を彼にあたえた。
 だが彼は帰りぎわに、大勢の観客《けんぶつ》といっしょに小舎を出ながら考えた。「こんな感激は、二三度はいいが、結局芝居や見世物と同じようにあきがくるだろう」と。
 彼はまだ、自分のほんとうに求めているものが見つからなかったが、ふとこんなことを思いついた――精神集中といっても、人間の気力にはかぎりがある。自転車の力だっていわば比較的のものだし、軌道にしても、いかに完全に見えていたっていつかはだめになるはずだ――と。そこで、一度はきっと事故が起こるにちがいないという結論に彼は到達した。
 この結論からおして、その起こるべき事故をみまもるという決心をするのは、きわめて手近い一歩なのだ。
「毎晩でかけよう」と彼は心にきめた。「あの曲乗りの男が頭蓋《あたま》をわるまで見にゆこう。そうだ、パリで興行中の三カ月間に事故が起こらなければ、おれはそれが起こるまでどこまでもおっかけていくんだ」
 それから二カ月間というものは、一晩もかかさずに、同じ時刻にでかけていって、おなじがわの同じ座席にすわった。彼はけっして、この座席を変えなかったので、座方の方でもじきに彼を見知るようになった。が、座方の連中は、高い料金をだして毎晩根気よく同じ曲乗りを見物にやってくる彼の道楽がどうしてもわかりかねた。
 ところがある晩、曲芸師は常よりも早くその曲乗りを終ったが、ふと廊下で彼にでっくわした。言葉をかわすのに紹介の必要などはなかった。
「お顔はとうから見おぼえています」曲芸師が挨拶した。「あなたは入りびたりですね。毎晩いらっしゃいますね」
 すると彼はびっくりして、
「僕はきみの曲乗りに非常な興味をもっているんだが、毎晩来るっていうことを誰に聞いたんだね?」
 曲芸師はにっこり笑って、
「誰に聞いたのでもありません。自分の眼で見ているのです」
「それは不思議だ。あんなに高い所から……あの危険な芸をやっていながら……きみは観客《けんぶつ》の顔を見わける余裕があるかね」
「そんな余裕があるもんですか。わたしは下の方の観客席なんかてんで見やしません。しょっちゅう動いたりしゃべったりしている観客に少しでも気を散らしたら、非常な危険ですからね。だがわたしどもの職業《しょうばい》では、技芸《わざ》や、理屈や、熟練のほかに、もっともっと大切なことがあります……いわばトリッ
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