神的にも肉体的にもひどく沈衰してしまって、そののち数カ月間、滅多に外出もしないようになった。
 ところがある日、パリの街々に、なん度刷りかの綺麗なポスターがはりだされた。そのポスターの図案は、くっきりと濃い海碧《あお》色を背景にして、一人の自転車乗りを点出したものであったが、まず一本の軌道が下へ向かってうねうねと幾重にも曲りくねって、しまいの方はリボンをたれたように垂直に地面へ落ちていた。そしてその軌道の頂上には、自転車乗りが今まさに駆けだそうとしてあいずを待っているのだが、軌道があんまり高いものだから、その自転車乗りは、ぽっちりと打ったひとつの点ほどにしか見えなかった。
 このポスターは自転車曲芸団の広告だったのである。
 その日の各新聞は、このきわどいはなれわざの提灯記事をかかげて奇抜なポスターの説明をしてくれていたが、それによると、かの曲芸師は、その錯綜した環状の軌道をば非常な快速力で風のごとく乗りまわして最後に地面へとぶのだが、彼は大胆にも、その危険きわまる曲乗りの最中に、自転車の上でさか立ちをやるということであった。
 曲芸師は新聞記者を招待したさいに、軌道と自転車とを実地にしらべさせて、種もしかけもないことを証明した。そして自分のはなれわざは、極度に精確な算数によるものであって、精神集中作用が完全にいっているかぎり、万が一にも仕損じる気づかいはないと断言したそうだ。
 しかしかりにも人間の生命が精神集中ひとつで保たれている場合、それはずいぶん不安定な懸釘にかかっているものだということもできるのだ。
 さてこの貼りだされたポスターを見ると、わが精神異常者は少し元気が回復してきた。かれはそこになんらか新しい刺激が自分を待っているにちがいないという確信をもって、「今に見ろ」と友だちに公言もした。で、彼は初日の晩から観客席に陣取って、熱心にこの曲乗りを見物することになった。
 彼はちょうど軌道の降り口のまっ正面に座席をひとつ取って、そこをたった一人で占領した。他人がまじると注意力が散漫になるのをおそれて、わざとひとりじめにしたのである。
 もっともきわどい曲乗りは、たった五分間で終った。はじめ、白い軌道の上に黒い点がひとつひょっこりあらわれたと思うと、それがおそろしい勢で驀進し、旋回し、それから大跳躍をやった。それですべてが終っていた。まるで電光石火ともいうべき
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