思っている。戦争と平和や、カラマゾフ兄弟は、まだまだ私には、書けないのである。それは、もう、はっきり明言できるのである。絶対に書けない。気持だけは、行きとどいていても、それを持ちこたえる力量がないのである。けれども、私は、そんなに悲しんではいない。私は、長生きをしてみるつもりである。やってみるつもりである。この覚悟も、このごろ、やっとついた。私は、文学を好きである。その点は、よほどのものである。これを茶化しては、いけない。好きでなければ、やれるものではない。信仰、――少しずつ、そいつがわかって来るのだ。大きな男が、ふんべつ顔して、いろは歌留多などを作っている図は、まるで弁慶が手まりついて遊んでいる図か、仁王様が千代紙折っている図か、モオゼがパチンコで雀をねらっている図ぐらいに、すこぶる珍なものに見えるだろうと、思う。それは、知っている。けれども、それでいいと思っている。芸術とは、そんなものだ。大まじめである。見ることのできる者は、見るがよい。
もちろん私は、こんな形式のものばかり書いて、満足しているものではない。こんな、ややこしい形式は、私自身も、骨が折れて、いやだ。既成の小説の作法も、ちゃんと抜からずマスタアしている筈である。現に、この小説の中にも、随所にずるく採用して在る。私も商人なのだから、そのへんは心得ている。所謂《いわゆる》、おとなしい小説も、これからは書くのである。どうも、こんなこと書きながら、みっともなく、顔がほてって来て仕様がない。でも、これも、私のいい友人たちを安心させるために、どうしても、書いて置きたく思うのである。純粋を追うて、窒息するよりは、私は濁っても大きくなりたいのである。いまは、そう思っている。なんのことは、ない、一言で言える。負けたくないのである。
この作品が、健康か不健康か、それは読者がきめてくれるだろうと思うが、この作品は、決して、ぐうたらでは無い。ぐうたら、どころか、私は一生懸命である。こんな小説を、いま発表するのは、私にとって不利益かも知れない。けれども、三十一歳は、三十一歳なりに、いろいろ冒険してみるのが、ほんとうだと思っている。戦争と平和は、私にはまだ書けない。私は、これからも、様々に迷うだろう。くるしむだろう。波は荒いのである。その点は、自惚《うぬぼ》れていない。充分、小心なほどに、用心しているつもりである。この作品の形式も、情感も、結局、三十一歳のそれを一歩も出ていないに違いない。けれども、私は、それに自信を持たなければいけない。三十一歳は、三十一歳みたいに書くより他に仕方が無い。それが一ばんいいのだと思っている。書きながら、へんに悲しくなって来た。こんなことを書いて、いけなかったのかも知れない。けれども、胸がわくわくして、どうしても書かずにいられなかったのだ。このごろは、全く、用心して用心して、薄氷を渡る気持で生活しているのである。ずいぶん、ひどく、やっつけられたから。
でも、もういい。私は、やってみる。まだ少し、ふらふらだが、そのうち丈夫に育つだろう。嘘をつかない生活は、決してたおれることは無いと、私は、まず、それを信じなければ、いけない。
さて、むかしの話を一つしよう。
不仕合せである、と思った。ひと、みな、私を、まだまだ仕合せなほうだよ、と評した。私は気弱く、そうとも、そうとも、と首肯した。なにが不足で、あがくのだろう、好き好んで苦しみを買っているのだ、人生の、生活のディレッタント、運がよすぎて恐縮していやがる、あんなたちの女があるよ苦労性と言ってね陰口だけを気にしている。
あるいはまた、佳人薄命、懐玉有罪、など言って、私をして、いたく赤面させ、狼狽させて私に大酒のませる悪戯者《いたずらもの》まで出て来た。
けれども、某夜、君は不幸な男だね、と普通の音声で言って平気でいた人、佐藤春夫である。私は、ぱっと行くてがひらけた実感に打たれ、ほんとにそう思いますか、と問いただした。私は、うすく微笑んでいたような気がする。うん、不幸だ、とやはり気易く首肯した。
もう一人、文藝春秋社のほの暗い応接室で、M・Sさん。きみと、しんじゅうするくらいに、きみを好いてくれるような、そんな、編輯者《へんしゅうしゃ》でも出て来ぬかぎり、きみは、不幸な、作家だ、と一語ずつ区切ってはっきり言った。そのように、きっぱり打ち明けて呉れるSさんの痩躯《そうく》に満ちた決意のほどを、私は尊いことに思った。
多くの場合、私はただ苦笑を以《もっ》て報いられていたのである。多くの人々にとって、私は、なんだかうるさい、ただ生意気な存在であった。けれども私は、みんなを畏怖《いふ》して、それから、みんなをすこしでも、そうして一時間でも永く楽しませ、自信を持たせ、大笑いさせたく、そのことをのみ念じていた。私
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