あわ》から生れて、西風に導かれ、波のまにまに、サイプラスの島の浦曲《うらわ》に漂着した。四肢は気品よく細長く、しっとりと重くて、乳白色の皮膚のところどころ、すなわち耳朶《みみたぶ》、すなわち頬、すなわち掌の裡、一様に薄い薔薇色《ばらいろ》に染っていて、小さい顔は、かぐようほどに清浄であった。からだじゅうからレモンの匂いに似た高い香気が発していた。ヴィナスのこの美しさに魅せられた神々たちは、このひとこそは愛と美の女神であると言ってあがめたて、心ひそかに怪《け》しからぬ望をさえいだいたのである。
ヴィナスが白鳥に曳《ひ》かせた二輪車に乗り、森や果樹園のなかを駈けめぐって遊んでいると、怪《け》しからぬ望を持った数十人の神々たちは、二輪車の濛々《もうもう》たる車塵を浴びながら汗を拭き拭き、そのあとを追いまわした。遊び疲れたヴィナスが森の奥の奥の冷い泉で、汗ばんだ四肢をこっそり洗っていると、あちらの樹間に、また、ついそこの草の茂みのかげに、神々たちのいやらしい眼が光っていた。
ヴィナスは考えた。こんなに毎日うるさい思いをするよりは、いっそ誰かにこのからだをぶち投げてあげようか。これときめた一人の男のひとに、このからだを投げてやってしまおうか。
ヴィナスは決意した。一月一日の朝まだき、神々の御父ジュピタア様の宮殿へおまいりの途中で逢った三人目の男のひとを私の生涯の夫《おっと》ときめよう。ああ、ジュピタア様、おたのみ申します、よい夫をおさずけ下さいますように。
元旦。ま白き被布を頭からひきかぶり、飛ぶようにして家を出た。森の小路で一人《いちにん》目の男のひとに逢った。見るからにむさくるしい毛むくじゃらの神であった。森の出口の白樺《しらかば》の下で二人目の男のひとに逢った。ヴィナスの脚は、はたと止って動かなんだ。男、りんりんたる美丈夫であったのである。朝霧の中を腕組みして、ヴィナスの顔を見もせずにゆったりと歩いていった。「ああ、この人だ! 三人目はこの人だ。二人目は、――二人目はこの白樺。」そう叫んでますらおの広いみ胸に身を投げた。
与えられた運命の風のまにまに身を任《まか》せ、そうして大事の一点で、ひらっと身をかわして、より高い運命を創《つく》る。宿命と、一点の人為的なる技術。ヴィナスの結婚は仕合せであった。ますらおこそはジュピタア様の御曹子《おんぞうし》、雷電の征服者ヴァルカンその人であった。キュウピッドという愛くるしい子をさえなした。
諸君が二十世紀の都会の街路で、このような、うらないを、暮靄《ぼあい》ひとめ避けつつ、ひそかに試みる場合、必ずしも律儀に三人目のひとを選ばずともよい。時に依《よ》っては、電柱を、ポストを、街路樹を、それぞれ一人に数え上げるがよい。キュウピッドの生れることは保証の限りでないけれども、ヴァルカン氏を得ることは確かである。私を信じなさい。
ろ[#「ろ」はゴシック体]、牢屋は暗い。
暗いばかりか、冬寒く、夏暑く、臭く、百万の蚊群。たまったものでない。
牢屋は、之《これ》は避けなければいけない。
けれども、ときどき思うのであるが、修身、斉家、治国、平天下、の順序には、固くこだわる必要はない。身いまだ修らず、一家もとより斉《ととの》わざるに、治国、平天下を考えなければならぬ場合も有るのである。むしろ順序を、逆にしてみると、爽快《そうかい》である。平天下、治国、斉家、修身。いい気持だ。
私は、河上肇博士の人柄を好きである。
は[#「は」はゴシック体]、母よ、子のために怒れ。
「いいえ、私には信じられない。悪いのは、あなただ。この子は、情のふかい子でした。この子は、いつでも弱いものをかばいました。この子は、私の子です。おお、よし。お泣きでない。こうしてお母さんが、来たからには、もう、指一本ふれさせまい!」
に[#「に」はゴシック体]、憎まれて憎まれて強くなる。
たまには、まともな小説を書けよ。おまえ、このごろ、やっと世間の評判も、よくなって来たのに、また、こんなぐうたらな、いろは歌留多《かるた》なんて、こまるじゃないか。世間の人は、おまえは、まだ病気がなおらないのではないかと、また疑い出すかも知れないよ。
私のいい友人たちは、そう言って心配してくれるかも知れないが、それは、もう心配しなくていいのだ。私は、まだ、老人でない。このごろそれに気がついた。なんのことは、ない、すべて、これからである。未熟である。文章ひとつ、考え考えしながら書いている。まだまだ自分のことで一ぱいである。怒り、悲しみ、笑い、身悶《みもだ》えして、一日一日を送っている始末である。やはり、三十一歳は、三十一歳だけのことしかないのである。それに気がついたのである。あたりまえのことであるが、私は、これを有り難い発見だと
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