は盗賊のふりをした。乞食《こじき》の真似をさえして見せた。心の奥の一隅に、まことの盗賊を抱き、乞食の実感を宿し、懊悩転輾《おうのうてんてん》の日夜を送っている弱い貧しい人の子は、私の素振りの陰に罪の兄貴を発見して、ひそかに安堵《あんど》、生きることへの自負心を持って呉れるにちがいない、と信じていた。ばかなことを考えていたものである。たちまち私は、蹴落された。審判の秋。私は、にくしみの対象に変化していた。或る重要な一線に於いて、私は、明確におろそかであった。怠惰であった。一線、やぶれて、決河の勢、私は、生れ落ちるとからの極悪人よ、と指摘された。弱い貧しい人の子の怨嗟《えんさ》、嘲罵《ちょうば》の焔《ほのお》は、かつての罪の兄貴の耳朶《みみたぶ》を焼いた。あちちちち、と可笑《おか》しい悲鳴挙げて、右往、左往、炉縁に寄れば、どんぐりの爆発、水瓶の水のもうとすれば、蟹《かに》の鋏《はさみ》、びっくり仰天、尻餅《しりもち》つけばおしりの下には熊蜂の巣、こはかなわずと庭へ飛び出たら、屋根からごろごろ臼《うす》のお見舞い、かの猿蟹合戦、猿への刑罰そのままの八方ふさがり、息もたえだえ、魔窟の一室にころがり込んだ。
 あの夜のことを、私は忘れぬ。死のうと思っていた。しかたが無いのである。酔いどれて、マントも脱がずにぶったおれて、
「やい、むかしの名妓というものは、」女は傍で笑っていた。「どんな奴《やつ》にでも、なんでもなく身をまかせたんだ。水みたいに、のれんみたいに、そのまま身をまかせるんだ。そうしてモナ・リザみたいに少し唇ゆがめて、静かにしていると、お客は狂っちゃうんだ、田地田畑《でんじでんばた》売りはらうんだ。いいかい、そこんところは大事だぞ。むかしから名妓とうたわれているひとは、みんな、そうだった。むやみに、指輪なんかねだっちゃいけないんだ。いつまでも、だまって足りなそうにしているんだ。芸は売っても、からだは売らぬなんて、操《みさお》を固くしている人は、そこは女だ、やっぱりからだをまかせると、それっきりお客がつかず、どうしたって名妓には、なれないんだ。」ひどい話である。サタンの美学、名妓論の一端とでも言うのか。めちゃ苦茶のこと吐鳴《どな》り散らして、眠りこけた。
 ふと眼をさますと、部屋は、まっくら。頭をもたげると枕もとに、真白い角封筒が一通きちんと置かれてあった。なぜかしら、どきッとした。光るほどに純白の封筒である。キチンと置かれていた。手を伸ばして、拾いとろうとすると、むなしく畳をひっ掻いた。はッと思った。月かげなのだ。その魔窟の部屋のカアテンのすきまから、月光がしのびこんで、私の枕もとに真四角の月かげを落していたのだ。凝然《ぎょうぜん》とした。私は、月から手紙をもらった。言いしれぬ恐怖であった。
 いたたまらず、がばと跳ね起き、カアテンひらいて窓を押し開け、月を見たのである。月は、他人の顔をしていた。何か言いかけようとして、私は、はっと息をのんでしまった。月は、それでも、知らんふりである。酷冷、厳徹、どだい、人間なんて問題にしていない。けたがちがう。私は醜く立ちつくし、苦笑でもなかった、含羞《がんしゅう》でもなかった、そんな生《なま》やさしいものではなかった。唸《うな》った。そのまま小さい、きりぎりすに成りたかった。
 甘ったれていやがる。自然の中に、小さく生きて行くことの、孤独、峻厳を知りました。かみなりに家を焼かれて瓜《うり》の花。その、はきだめの瓜の花一輪を、強く、大事に、育てて行こうと思いました。

 ほ[#「ほ」はゴシック体]、蛍の光、窓の雪。

 清窓浄机、われこそ秀才と、書物ひらいて端座しても、ああ、その窓のそと、号外の鈴の音が通るよ。それでも私たちは、勉強していなければいけないのだ。聞けよ、金魚もただ飼い放ちあるだけでは月余の命たもたず、と。

 へ[#「へ」はゴシック体]、兵を送りてかなしかり。

 戦地へ行く兵隊さんを見送って、泣いては、いけないかしら。どうしても、涙が出て出て、だめなんだ、おゆるし下さい。

 と[#「と」はゴシック体]、とてもこの世は、みな地獄。

 不忍《しのばず》の池、と或る夜ふと口をついて出て、それから、おや? 可笑しな名詞だな、と気附いた。これには、きっとこんな由来があったのだ。それにちがいない。
 たしかな年代は、わからぬ。江戸の旗本の家に、冠《かんむり》若太郎という十七歳の少年がいた。さくらの花びらのように美しい少年であった。竹馬《ちくば》の友に由良《ゆら》小次郎という、十八歳の少年武士があった。これは、三日月のように美しい少年であった。冬の曇日、愛馬の手綱の握りかたに就《つ》いて、その作法に就いて、二人のあいだに意見の相違が生じ、争論の末、一方の少年の、にやりという片頬の薄笑いが
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