葉
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撰《えら》ばれて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一生|鉄漿《かね》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから5字下げ]
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[#ここから5字下げ]
撰《えら》ばれてあることの
恍惚《こうこつ》と不安と
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
[#ここで字下げ終わり]
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目《しまめ》が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。
私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。
その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、たった独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲団《ふとん》を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「汲《く》み取り便所は如何《いか》に改善すべきか?」という書物を買ってきて本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞《じんぷん》の処置には可成《かなり》まいっていた。
新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊《いしころ》がのろのろ這《は》って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊《いしころ》は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺《ひきず》っているのだということが直ぐに判った。
子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄《やけ》が淋しかったのだ。
そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということに成るんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぽっと霞《かす》んだ。泣いたのだ。彼は狼狽《うろた》えだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕《なみだ》を流したのが少し恥かしかったのだ。
電車から降りるとき兄は笑うた。
「莫迦《ばか》にしょげてるな。おい、元気を出せよ」
そうして竜の小さな肩を扇子でポンと叩いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白っぽかった。竜は頬のあからむほど嬉しくなった。兄に肩をたたいて貰ったのが有難かったのだ。いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて呉《く》れるといいが、と果敢《はか》なくも願うのだった。
訪ねる人は不在であった。
兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」
また兄は、自殺をいい気なものとして嫌った。けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を意外に感じた。
白状し給え。え? 誰の真似なの?
水《みず》到《いた》りて渠《きょ》成《な》る。
彼は十九歳の冬、「哀蚊《あわれが》」という短篇を書いた。それは、よい作品であった。同時に、それは彼の生涯の渾沌《こんとん》を解くだいじな鍵《かぎ》となった。形式には、「雛《ひな》」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。原文のまま。
おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなくのことでございますから、どうせ幻燈のようにとろんと霞んでいるに違いございませぬ。いいえ、でも、その青蚊帳《あおがや》に写した幻燈のような、ぼやけた思い出が奇妙にも私には年一年と愈々《いよいよ》はっきりして参るような気がするのでございます。
なんでも姉様がお婿をとって、あ、ちょうどその晩のことでございます。御祝言の晩のことでございました。芸者衆がたくさん私の家に来て居りまして、ひとりのお綺麗《きれい》な半玉さんに紋附の綻《ほころ》びを縫って貰ったりしましたのを覚えて居りますし、父様が離座敷《はなれ》の真暗な廊下で脊のお高い芸者衆とお相撲《すもう》をお取りになっていらっしゃったのもあの晩のことでございました。父様はその翌年お歿《な》くなりになられ、今では私の家の客間の壁の大きな御写真のなかに、おはいりになって居られるのでございますが、私はこの御写真を見るたびごとに、あの晩のお相撲のことを必ず思い出すのでございます。私の父様は、弱い人をいじめるようなことは決してなさらないお方でございましたから、あのお相撲も、きっと芸者衆が
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