何かひどくいけないことをなしたので父様はそれをお懲《こら》しめになっていらっしゃったのでございましょう。
それやこれやと思い合せて見ますと、確かにあれは御祝言の晩に違いございませぬ。ほんとうに申し訳がございませぬけれど、なにもかも、まるで、青蚊帳の幻燈のような、そのような有様でございますから、どうで御満足の行かれますようお話ができかねるのでございます。てもなく夢物語、いいえ、でも、あの晩に哀蚊の話を聞かせて下さったときの婆様の御めめと、それから、幽霊、とだけは、あれだけは、どなたがなんと仰言《おっしゃ》ったとて決して決して夢ではございませぬ。夢だなぞとおろかなこと、もうこれ、こんなにまざまざ眼先に浮んで参ったではございませんか。あの婆様の御めめと、それから。
さようでございます。私の婆様ほどお美しい婆様もそんなにあるものではございませぬ。昨年の夏お歿くなりになられましたけれど、その御死顔と言ったら、すごいほど美しいとはあれでございましょう。白蝋《はくろう》の御両頬には、あの夏木立の影も映らむばかりでございました。そんなにお美しくていらっしゃるのに、縁遠くて、一生|鉄漿《かね》をお附けせずにお暮しなさったのでございます。
「わしという万年白歯を餌にして、この百万の身代ができたのじゃぞえ」
富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろうなどと野暮なお探りはお止《よ》しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう。と申しますのは、私の婆様は、それはそれは粋《いき》なお方で、ついに一度も縮緬《ちりめん》の縫紋の御羽織をお離しになったことがございませんでした。御師匠をお部屋へお呼びなされて富本のお稽古《けいこ》をお始めになられたのも、よほど昔からのことでございましたでしょう。私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の老松《おいまつ》やら浅間《あさま》やらの咽《むせ》び泣くような哀調のなかにうっとりしているときがままございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳にしては美しくお笑いになって居られたようでございました。いかなることか、私は幼いときからこの婆様が大好きで、乳母から離れるとすぐ婆様の御懐に飛び込んでしまったのでございます。もっとも私の母様は御病身でございました故、子供には余り構うて呉れなかったのでございます。父様も母様も婆様のほんとうの御子ではございませぬから、婆様はあまり母様のほうへお遊びに参りませず四六時中、離座敷のお部屋にばかりいらっしゃいますので、私も婆様のお傍《そば》にくっついて三日も四日も母様のお顔を見ないことは珍らしゅうございませんでした。それゆえ婆様も、私の姉様なぞよりずっと私のほうを可愛がって下さいまして、毎晩のように草双紙《くさぞうし》を読んで聞かせて下さったのでございます。なかにも、あれあの八百屋お七の物語を聞いたときの感激は私は今でもしみじみ味わうことができるのでございます。そしてまた、婆様がおたわむれに私を「吉三《きちざ》」「吉三」とお呼びになって下さった折のその嬉しさ。らんぷの黄色い燈火《ともしび》の下でしょんぼり草双紙をお読みになっていらっしゃる婆様のお美しい御姿、左様、私はことごとくよく覚えているのでございます。
とりわけあの晩の哀蚊の御寝物語は、不思議と私には忘れることができないのでございます。そう言えばあれは確かに秋でございました。
「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻《かいぶ》しは焚《た》かぬもの。不憫《ふびん》の故にな」
ああ、一言一句そのまんま私は記憶して居ります。婆様は寝ながら滅入《めい》るような口調でそう語られ、そうそう、婆様は私を抱いてお寝になられるときには、きまって私の両足を婆様のお脚のあいだに挟んで、温めて下さったものでございます。或る寒い晩なぞ、婆様は私の寝巻をみんなお剥《は》ぎとりになっておしまいになり、婆様御自身も輝くほどお綺麗な御素肌をおむきだし下さって、私を抱いてお寝になりお温めなされてくれたこともございました。それほど婆様は私を大切にしていらっしゃったのでございます。
「なんの。哀蚊はわしじゃがな。はかない……」
仰言りながら私の顔をつくづくと見まもりましたけれど、あんなにお美しい御めめもないものでございます。母屋《おもや》の御祝言の騒ぎも、もうひっそり静かになっていたようでございましたし、なんでも真夜中ちかくでございましたでしょう。秋風がさらさらと雨戸を撫《な》でて、軒の風鈴がその度毎に弱弱しく鳴って居りましたのも幽《かす》かに思いだすことができるのでございます。ええ、幽霊を見たのはその夜のことでございます。ふっと眼
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