不審庵
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)候《そうろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)孫左衛門殿|逝去《せいきょ》の後は、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「にんべん+總のつくり」、389−10]
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拝啓。暑中の御見舞いを兼ね、いささか老生日頃の愚衷など可申述《もうしのぶべく》候《そうろう》。老生すこしく思うところ有之《これあり》、近来ふたたび茶道の稽古にふけり居り候。ふたたび、とは、唐突にしていかにも虚飾の言の如く思召《おぼしめ》し、れいの御賢明の苦笑など漏し給わんと察せられ候も、何をか隠し申すべき、われ幼少の頃より茶道を好み、実父孫左衛門殿より手ほどきを受け、この道を伝授せらるる事数年に及び申候えども、悲しい哉《かな》、わが性鈍にしてその真趣を究《きわむ》る能《あた》わず、しかのみならず、わが一挙手一投足はなはだ粗野にして見苦しく、われも実父も共に呆《あき》れ、孫左衛門殿|逝去《せいきょ》の後は、われその道を好むと雖《いえど》も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用ようやく繁く、心ならずも次第にこの道より遠ざかり、父祖伝来の茶道具をも、ぽつりぽつりと売払い、いまは全く茶道と絶縁の浅ましき境涯と相成申候ところ、近来すこしく深き所感も有之候まま、まことに数十年振りにて、ひそかに茶道の独習を試み、いささかこの道の妙訣《みょうけつ》を感得|仕《つかまつ》り申候ものの如き実情に御座候。
それ覆載《ふうさい》の間、朝野の別を問わず、人皆、各自の天職に心力を労すればまたその労を慰むるの娯楽なかるべからざるは、いかにも本然の理と被存《ぞんぜられ》候。而《しこう》して人間の娯楽にはすこしく風流の趣向、または高尚の工夫なくんば、かの下等動物などの、もの食いて喉《のど》を鳴らすの図とさも似たる浅ましき風情と相成果申すべく、すなわち各人その好む所に従い、或いは詩歌管絃、或いは囲碁挿花、謡曲舞踏などさまざまの趣向をこらすは、これ万物の霊長たる所以《ゆえん》と愚案じ申次第に御座候。然りと雖《いえど》も相互に於ける身分の貴賤、貧富の隔壁を超越仕り真に朋友としての交誼を親密ならしめ、しかも起居の礼を失わず談話の節を紊《みだ》さず、質素を旨とし驕奢《きょうしゃ》を排し、飲食も
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