く惜しき事に御座候えば、明後日午後二時を期して老生日頃|昵懇《じっこん》の若き朋友二、三人を招待仕り、ささやかなる茶会を開催致したく、貴殿も万障繰合せ御出席然るべく無理にもおすすめ申上候。流水濁らず、奔湍《ほんたん》腐らず、御心境日々に新たなる事こそ、貴殿の如き芸術家志望の者には望ましく被存候。茶会御出席に依り御心魂の新粧をも期し得べく、決してむだの事には無之《これなく》、まずは欣然《きんぜん》御応諾当然と心得申者に御座候。頓首。
 ことしの夏、私は、このようなお手紙を、れいの黄村先生から、いただいたのである。黄村先生とは、どんな御人物であるか、それに就《つ》いては、以前もしばしば御紹介申し上げた筈《はず》であるから、いまは繰り返して言わないけれども、私たち後輩に対して常に卓抜《たくばつ》の教訓を垂れ給い、ときたま失敗する事があるとはいうものの、とにかく悲痛な理想主義者のひとりであると言っても敢《あ》えて過称ではなかろうと思われる。その黄村先生から、私はお茶の招待を受けたのである。招待、とは言っても、ほとんど命令に近いくらいに強硬な誘引である。否も応もなく、私は出席せざるを得なくなったのである。
 けれども、野暮《やぼ》な私には、お茶の席などそんな風流の場所に出た経験は生れてから未だいちども無い。黄村先生は、そのような不粋《ぶすい》な私をお茶に招待して、私のぶざまな一挙手一投足をここぞとばかり嘲笑し、かつは叱咤《しった》し、かつは教訓する所存なのかも知れない。油断がならぬ。私は先生のお手紙を拝誦して、すぐさま外出し、近所の或る優雅な友人の宅を訪れた。
「君のとこに、何かお茶の事を書いた本が無いかね。」私は時々この上品な友人から、その蔵書を貸してもらっているのである。
「こんどはお茶の本か。多分、あるだろうと思うけど、君もいろんなものを読むんだね。お茶とは、また。」友人はいぶかしげの顔をした。
「茶道読本」とか「茶の湯客の心得」とか、そんな本を四冊も借りて私は家へ帰り、片端から読破した。茶道と日本精神、侘《わび》の心境、茶道の起原、発達の歴史、珠光、紹鴎、利休の茶道。なかなか茶道も、たいへんなものだ。茶室、茶庭、茶器、掛物、懐石の料理|献立《こんだて》、読むにしたがって私にも興が湧いて来た。茶会というものは、ただ神妙にお茶を一服御馳走になるだけのものかと思っていたら、
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