の音が耳にはいり、ああここは、港町の小川君の家だ、ゆうべはずいぶんやっかいをかけたな、というところあたりから後悔がはじまり、身の行末も心細く胸がどきどきして来て、突然、二十年も昔の自分の奇妙にキザな振舞いの一つが、前後と何の聯関《れんかん》も無く、色あざやかに浮んで来て、きゃっと叫びたいくらいのたまらない気持になり、いかん! つまらん! など低く口に出して言ってみたりして、床の中で輾転《てんてん》しているのである。泥酔して寝ると、いつもきまって夜中に覚醒し、このようなやりきれない刑罰の二、三時間を神から与えられるのが、私のこれまでの、ならわしになっているのだ。
「すこしでも、眠らないと、わるいわよ。」
 まぎれもなく、あの女中の声である。しかし、それは私に向って言ったのではない。私の蒲団《ふとん》の裾《すそ》のほうに当っている隣室から、ひそひそと漏れ聞えて来る声なのである。
「ええ、なかなか、眠れないんです。」
 若い男の、いや、ほとんど少年らしいひとの、いやみのない応答である。
「ちょっと一眠りしましょうよ。何時ですか?」と女。
「三時、十三、いや、四分《よんぷん》です。」
「そう?
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