から、小さい声で、いい仕事の出来るように、いい仕事の出来るように、と呟いて、ひどく悲しくなって真暗い空を仰いで、もっとうんと小さい声で、いい仕事をさせて下さい、と囁《ささや》くように言いました。渓流の音だけが物凄《ものすご》くて、――渓流の音と言えば、すぐにきょうのお昼の失敗を思い出し、首筋をちぢめます。実は、きょうのお昼に、また一つ失敗をしたのです。けさ私は、岩風呂でないほうの、洋式のモダン風呂のほうへ顔を洗いに行って、脱衣場の窓からひょいと、外を見るとすぐ鼻の先に宿屋の大きい土蔵があってその戸口が開け放されているので薄暗い土蔵の奥まで見えるのですが、土蔵の窓から桐《きり》の葉の青い影がはいっていて涼しそうでした。女が坐っているのです。奥に畳が二枚敷かれていて、簡単服を着た娘さんが、その上にちゃんと行儀よく坐って縫いものをしているのでした。悪くないな、と思いました。丸顔で、そんなに美人でもないようですが、でも、みどりの葉影を背中に受けてせっせと針仕事をしている孤独の姿には、処女の気品がありました。へんに気になって、朝ごはんの時、給仕に出て来た狐の女中に、あの娘さんは何ですか、とたずね
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