は、学問でもなければお金でもない。勇気です。君は、自身の善良性に行きづまっているのです。だらしの無い話だ。作家は例外なく、小さい悪魔を一匹ずつ持っているものです。いまさら善人づらをしようたって追いつかぬ。
この手紙が、君への最後の手紙にならないように祈っている。敬具。
七月三日[#地から3字上げ]井原退蔵
木戸一郎様
拝啓。
のがれて都を出ました。この言葉をご存じですか。ご存じだったら、噴き出した筈です。これは、ひどく太って気の毒な或る女流作家の言葉なのです。けれども、此の一行の言葉には、迫真性があります。さて、私も、のがれて都を出ました。懐中には五十円。
私は、どうしてこうなんでしょう。不安と苦痛の窮極まで追いつめられると、ふいと、ふざけた言葉が出るのです。臨終《りんじゅう》の人の枕もと等で、突然、卑猥《ひわい》な事を言って笑いころげたい衝動を感ずるのです。まじめなのです。気持は堪えられないくらいに厳粛にこわばっていながら、ふいと、冗談を言い出すのです。のがれて都を出ましたというのも、私の苦しまぎれのお道化でした。態度が甚《はなは》だふざけています。だいいち、
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