と思います。五十円持って旅に出たまずしい小心者が、そのお金をどんな工合いに使用したか、汽車賃、電車代、茶代、メンソレタム、一銭の使途もいつわらず正確に報告する小説を書こうと思います。
 ふざけた事ばかりを書きました。きょうは女房から手紙が来ました。御自重下さい、と書かれていましたので、げっそり致しました。しず子(私のひとり娘です。五歳になります。)もおとなしくお留守番をしています、とも書かれていました。どうしても、ここで一篇、小説を書かなければ、家へも面目なくて帰れない気持です。毎日こんな、だらしない事では、どう仕様もございません。
 どうやら今夜の手紙も、しどろもどろ(あなたの言葉で言えば、嘘だらけ)の手紙になりました。かなぶんぶんが、次から次と部屋へはいって来て、どうも落ちついて書けませぬ。この部屋は、この宿のうちで最下等の部屋のようであります。襖《ふすま》の絵が、全然なっていません。一本の梅の枝に、鶯《うぐいす》が六羽ならんでとまっている絵があります。見ていると、腹が立って来ます。ひどい絵です。
 だらだら勝手な事ばかり書いて来ました。いちいちお読み下さったとしたら恐縮です。でも、もう怒らないで下さい。あなたは、すぐ怒るからいけません。もう、あんな長い堂々のお手紙ばかりはごめんですよ。
 ご存じですか? 私は、あなたとこんな手紙の往復が出来て、幸福なんですよ。私は、二十も若くなりました。草々頓首。
    七月七日深夜。[#地から3字上げ]木戸一郎
  井原退蔵様


 木戸君。
 やっぱり自分のほうが、君より役者が一枚上だと思った。君は、なんのかんのと言いながらも、とにかく仕事をはじめる気になったじゃないか。自分の長い手紙も、決してむだではなかったのです。作家は、仕事をしなければならぬ。ひょっとしたら自分も、二三日中に旅に出る事になるかも知れない。その時には君の宿へも立ち寄ってみたいと思っている。面白い宿です。外八文字は、案外、君に気があるのかも知れぬ。もういちど話かけてみたら、どうですか。不取敢《とりあえず》、短い[#「短い」に傍点]葉書を。不一。
    七月九日[#地から3字上げ]井原退蔵


 謹啓。
 しばらく御無沙汰して居りました。仕事を一段落させてから、ゆっくりお礼やらお詫びやらを申し上げようと思って、きょうまで延引してしまいました。おゆるし下
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