せん。部屋を出る時は、トイレットへ行く時でも、お風呂へ行く時でも、散歩に出る時でも、かならず懐へ入れて出ます。お金が惜しいというわけではなく、無くなった時、いろいろ騒ぎになる、その騒ぎがいやなのです。私は岩風呂へ降りて行って、そこからスリッパのままで釜が淵のほうへぶらぶら何気なさそうに歩いて行きました。女の尻を追い廻す、という最下等のいやな言葉が思い浮びましたが、私の場合は、それとちがうのだというような気もして、そんなに天の呵責《かしゃく》も感じませんでした。なんとかして一言、なぐさめてやりたかったのです。女の人は、私のほうをちらと見て、立ち上りました。私はここぞと微笑して、「毎日たいへんですね。」と言ってやりました。女は、え? と聞き直すように小頸《こくび》をかしげて私のほうを見て、当惑そうに幽かに笑いました。聞えないのです。急湍《きゅうたん》は叫喚し怒号し、白く沸々と煮えたぎって跳奔している始末なので、よほどの大声でなければ、何を言っても聞えないのです。私は、よほどの大声で、「毎日たいへんですね!」と絶叫しました。けれども、やっぱり奔湍の叫喚にもみくちゃにされて聞えないのです。女は、いよいよ当惑そうに眼をぱちぱちさせて、笑っています。私は、やけくそになって吠えるようにもういちど、「毎日たいへんですね!」と叫びましたが、女は、やはり、え? と聞き直すように、私の顔を見つめます。私は、しょげてしまいました。毎日たいへんですねという言葉そのものが、いったい何の事やら、わけがわからない、ばからしいもののような気がして来て、不機嫌にさえなりました。私はあきらめて岩にくだけて躍る水沫をしばらく眺め、それから帰りました。部屋へ帰ってから財布が懐に無い事に気が附きうろたえました。きっと釜が淵のあたりに落したのだ。そうして、あの女に拾われてしまったのだと、なぜだか電光の如くきらりと思い込んでしまいました。きっとあの人には盗癖があって、拾っても知らぬ振りをしているのだ。あんな淋しそうな女には、意外にも盗癖があるものだ。けれども私は、ゆるしてやろう。などと少しロマンチックな興奮を取り戻して、部屋を出てまた岩風呂のほうへ降りて行く途中で、その財布が私の浴衣の背中のほうに廻っているのを発見して、しんから苦笑しました。私は、ラヴ・ロマンスをあきらめます。「五十円」という題の貧乏小説を書こう
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