さい。言いにくい事から、まず申し上げますが、あの温泉宿の支払いをお助け下さって、ありがとう存じます。たしか二十円お借りしたと覚えて居りますが、小為替《こがわせ》にて同封して置きましたから、よろしくお願い致します。私も「へちまの花」の印税がはいったばかりのところですからお金持であります。お気を悪くなさらず笑ってお納め下さい。貧乏していると、へんに片意地になるもので、どんな親しい人からでも、お金の世話になりたくないものです。はばかりながら人に不義理はしていねえ、という事だけが、せめてもの唯一の誇りのようであります。その誇り一つで生きているものです。どうか、お怒りなさらず、お納め下さい。あの山の中の、つまらぬ温泉宿に、あなたがおいでになったと女中から通知された時には、私は思わず、ひえっ! という奇妙な叫び声を挙げました。あなたもずいぶん滅茶なひとだと思いました。お葉書に書いてはございましたが、まさかと思って、少しもあてにはしていなかったのです。あなたの年代の作家たちは、へんに子供みたいに正直ですね。私は呆《あき》れて、立ち上ったら、「ひでえ部屋にいやがる。」と学生みたいな若い口調で言って、のっそり私の部屋へはいって来られた。思っていたよりも小柄で、きれいなじいさんでした。白い歯をちらと見せて笑って、「鶯が六羽いるというのは、この襖《ふすま》か。なるほど、六羽いる。部屋を換えたまえ。」とせかせか言いました。あなたは、あの時、てれていたのではないでしょうか。てれがくしに、襖の絵の事などおっしゃったのではないでしょうか。私が意味もなく、「はあ」と言ってお辞儀をしたら、あなたも、ぎゅっとまじめになって、「僕は井原です。仕事の邪魔になったようですね。」と、はじめて、あなたの文章と同じ響きの、強い明快の調子で言いました。
「いいえ、それどころか。」私は、てんてこ舞いをしていました。そうして、えへへ、と実に卑しいお追従《ついしょう》笑いをしたようです。本当に、仕事の邪魔どころか、私は目がくらんで矢庭《やにわ》に倒立《さかだ》ちでもしたい気持でした。私はあの日、もう東京へ帰ろうかと思っていたのです。一週間も滞在して、いちまいも書けず、宿賃が一泊五円として、もうそろそろ五十円では支払いが心細くなっていますし、きょうあたり会計をしてもらって、もし足りなかったら家へ電報を打たなければなるまい、
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