父
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例父《ちち》アブラハムに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)皆|痩《や》せて、
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(例)[#ここから7字下げ]
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イサク、父《ちち》アブラハムに語《かた》りて、
父《ちち》よ、と曰《い》ふ。
彼《かれ》、答《こた》へて、
子《こ》よ、われ此《ここ》にあり、
といひければ、
――創世記二十二ノ七
[#ここで字下げ終わり]
義のために、わが子を犠牲にするという事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。信仰の祖といわれているアブラハムが、その信仰の義のために、わが子を殺そうとした事は、旧約の創世記に録されていて有名である。
ヱホバ、アブラハムを試みんとて、
アブラハムよ、
と呼びたまふ。
アブラハム答へていふ、
われここにあり。
ヱホバ言ひたまひけるは、
汝《なんじ》の愛する独子《ひとりご》、すなはちイサクを携《たずさ》へ行き、かしこの山の頂きに於《おい》て、イサクを燔祭《はんさい》として献《ささ》ぐべし。
アブラハム、朝つとに起きて、その驢馬《ろば》に鞍《くら》を置き、愛するひとりごイサクを乗せ、神のおのれに示したまへる山の麓《ふもと》にいたり、イサクを驢馬よりおろし、すなはち燔祭の柴薪《たきぎ》をイサクに背負はせ、われはその手に火と刀を執《と》りて、二人ともに山をのぼれり。
イサク、父アブラハムに語りて、
父よ、
と言ふ。
彼、こたへて、
子よ、われここにあり、
といひければ、
イサクすなはち父に言ふ、
火と柴薪《たきぎ》は有り、されど、いけにへの小羊は何処《いずこ》にあるや。
アブラハム、言ひけるは、
子よ、神みづから、いけにへの小羊を備へたまはん。
斯《か》くして二人ともに進みゆきて、遂《つい》に山のいただきに到れり。
アブラハム、壇を築き、柴薪をならべ、その子イサクを縛りて、之《これ》を壇の柴薪の上に置《の》せたり。
すなはち、アブラハム、手を伸べ、刀を執りて、その子を殺さんとす。
時に、ヱホバの使者、天より彼を呼びて、
アブラハムよ、
アブラハムよ、
と言へり。
彼言ふ、
われ、ここにあり。
使者の言ひけるは、
汝の手を童子《わらべ》より放て、
何をも彼に為すべからず、
汝はそのひとりごをも、わがために惜まざれば、われいま汝が神を畏《おそ》るるを知る。
云々《うんぬん》というような事で、イサクはどうやら父に殺されずにすんだのであるが、しかし、アブラハムは、信仰の義者《ただしきもの》たる事を示さんとして躊躇《ちゅうちょ》せず、愛する一人息子を殺そうとしたのである。
洋の東西を問わず、また信仰の対象の何たるかを問わず、義の世界は、哀《かな》しいものである。
佐倉宗吾郎一代記という活動写真を見たのは、私の七つか八つの頃の事であったが、私はその活動写真のうちの、宗吾郎の幽霊が悪代官をくるしめる場面と、それからもう一つ、雪の日の子わかれの場を、いまでも忘れずにいる。
宗吾郎が、いよいよ直訴《じきそ》を決意して、雪の日に旅立つ。わが家の格子窓《こうしまど》から、子供らが顔を出して、別れを惜しむ。ととさまえのう、と口々に泣いて父を呼ぶ。宗吾郎は、笠《かさ》で自分の顔を覆うて、渡し舟に乗る。降りしきる雪は、吹雪《ふぶき》のようである。
七つ八つの私は、それを見て涙を流したのであるが、しかし、それは泣き叫ぶ子供に同情したからではなかった。義のために子供を捨てる宗吾郎のつらさを思って、たまらなくなったからであった。
そうして、それ以来、私には、宗吾郎が忘れられなくなったのである。自分がこれから生き伸びて行くうちに、必ずあの宗吾郎の子別れの場のような、つらくてかなわない思いをする事が、二度か三度あるに違いないという予感がした。
私のこれまでの四十年ちかい生涯に於いて、幸福の予感は、たいていはずれるのが仕来《しきた》りになっているけれども、不吉の予感はことごとく当った。子わかれの場も、二度か三度、どころではなく、この数年間に、ほとんど一日置きくらいに、実にひんぱんに演ぜられて来ているのである。
私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか。私はことし既に三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に依《よ》って得た収入の全部は、私ひとりの遊びのために浪費して来たと言っても、敢《あ》えて過言ではないのである。しかも、その遊びというのは、自分にとって、地獄の痛苦のヤケ酒と、いやなおそろしい鬼女とのつかみ合いの形に似たる浮気であって、私自身、何のたのしいところも無いのである。また、そのような私の遊びの相手になって、私の饗応《きょうおう》を受ける知人たちも、ただはらはらするばかりで、少しも楽しくない様子である。結局、私は私の全収入を浪費して、ひとりの人間をも楽しませる事が出来ず、しかも女房が七輪《しちりん》一つ買っても、これはいくらだ、ぜいたくだ、とこごとを言う自分勝手の亭主なのである。よろしくないのは、百も承知である。しかし私は、その癖を直す事が出来なかった。戦争前もそうであった。戦争中もそうであった。戦争の後も、そうである。私は生れた時から今まで、実にやっかいな大病にかかっているのかも知れない。生れてすぐにサナトリアムみたいなところに入院して、そうして今日まで充分の療養の生活をして来たとしても、その費用は、私のこれまでの酒煙草の費用の十分の一くらいのものかも知れない。実に、べらぼうにお金のかかる大病人である。一族から、このような大病人がひとり出たばかりに、私の身内の者たちは、皆|痩《や》せて、一様に少しずつ寿命をちぢめたようだ。死にやいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられたいばかりに、身内の者の寿命をちぢめるとは、憎みても余りある極悪人ではないか。死ね!
親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。
炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。
午後三時か四時頃、私は仕事に一区切りをつけて立ち上る。机の引出しから財布《さいふ》を取り出し、内容をちらと調べて懐《ふところ》にいれ、黙って二重廻しを羽織って、外に出る。外では、子供たちが遊んでいる。その子供たちの中に、私の子もいる。私の子は遊びをやめて、私のほうに真正面向いて、私の顔を仰ぎ見る。私も、子の顔を見下す。共に無言である。たまに私は、袂《たもと》からハンケチを出して、きゅっと子の洟《はな》を拭いてやる事もある。そうして、さっさと私は歩く。子供のおやつ、子供のおもちゃ、子供の着物、子供の靴、いろいろ買わなければならぬお金を、一夜のうちに紙屑《かみくず》の如く浪費すべき場所に向って、さっさと歩く。これがすなわち、私の子わかれの場なのである。出掛けたらさいご、二日も三日も帰らない事がある。父はどこかで、義のために遊んでいる。地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭《か》けて遊んでいる。母は観念して、下の子を背負い、上の子の手を引き、古本屋に本を売りに出掛ける。父は母にお金を置いて行かないから。
そうして、ことしの四月には、また子供が生れるという。それでなくても乏しかった衣類の、大半を、戦火で焼いてしまったので、こんど生れる子供の産衣《うぶぎ》やら蒲団《ふとん》やら、おしめやら、全くやりくりの方法がつかず、母は呆然《ぼうぜん》として溜息《ためいき》ばかりついている様子であるが、父はそれに気附かぬ振りしてそそくさと外出する。
ついさっき私は、「義のために」遊ぶ、と書いた。義? たわけた事を言ってはいけない。お前は、生きている資格も無い放埒病《ほうらつびょう》の重患者に過ぎないではないか。それをまあ、義、だなんて。ぬすびとたけだけしいとは、この事だ。
それは、たしかに、盗人の三分《さんぶ》の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻《あり》が、墨汁の海から這《は》い上って、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合いの、幽《かす》かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私の立場の「義」の意味も、明白に皆に説明できるような気がするのだけれども、それがなかなか、ややこしく、むずかしいのである。
こんな譬喩《ひゆ》を用いて、私はごまかそうとしているのでは決してない。その文字を具体的に説明して聞かせるのは、むずかしいのみならず、危険なのだ。まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、呆《あき》れるばかりに図々《ずうずう》しい面《つら》の皮千枚張りの詭弁《きべん》、または、淫祠《いんし》邪教のお筆先、または、ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。
それらの不潔な虱《しらみ》と、私の胸の奥の白絹に書かれてある蟻の足跡のような文字とは、本質に於いて全く異るものであるという事には、私も確信を持っているつもりであるが、しかし、その説明は出来ない。また、げんざい、しようとも思わぬ。キザな言い方であるが、花ひらく時節が来なければ、それは、はっきり解明できないもののようにも思われる。
ことしの正月、十日頃、寒い風の吹いていた日に、
「きょうだけは、家にいて下さらない?」
と家の者が私に言った。
「なぜだ。」
「お米の配給があるかも知れませんから。」
「僕が取りに行くのか?」
「いいえ。」
家の者が二、三日前から風邪《かぜ》をひいて、ひどいせきをしているのを、私は知っていた。その半病人に、配給のお米を背負わせるのは、むごいとも思ったが、しかし、私自身であの配給の列の中にはいるのも、頗《すこぶ》るたいぎなのである。
「大丈夫か?」
と私は言った。
「私がまいりますけど、子供を連れて行くのは、たいへんですから、あなたが家にいらして、子供たちを見ていて下さい。お米だけでも、なかなか重いんです。」
家の者の眼には、涙が光っていた。
おなかにも子供がいるし、背中にひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。
「いるさ。いるよ。家にいるよ。」
それから、三十分くらい経って、
「ごめん下さい。」
と玄関で女のひとの声がして、私が出て見ると、それは三鷹《みたか》の或るおでんやの女中であった。
「前田さんが、お見えになっていますけど。」
「あ、そう。」
部屋の出口の壁に吊り下げられている二重廻しに、私はもう手をかけていた。
とっさに、うまい嘘《うそ》も思いつかず、私は隣室の家の者には一言も、何も言わず、二重廻しを羽織って、それから机の引出しを掻《か》きまわし、お金はあまり無かったので、けさ雑誌社から送られて来たばかりの小為替《こがわせ》を三枚、その封筒のまま二重廻しのポケットにねじ込み、外に出た。
外には、上の女の子が立っていた。子供のほうで、間《ま》の悪そうな顔をしていた。
「前田さんが? ひとりで?」
私はわざと子供を無視して、おでんやの女中にたずねた。
「ええ。ちょっとでいいから、おめにかかりたいって。」
「そう。」
私たちは子供を残して、いそぎ足で歩いた。
前田さんとは、四十を越えた女性であった。永い事、有楽町の新聞社に勤めていたという。しかし、いまは何をしているのか、私にもわからない。そのひとは、二週間ほど前、年の暮に
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